注釈・江源武鑑 前書

 
 
 

御幕之事 第4条・第6条・第9条・第16条~第19条 

(第9条について) 
ここでは乳毎に書き入れるものとして、『乳の中に、臨兵闘者皆陳烈在前怨敵消滅悪魔降伏怨敵消滅天地和合皆令満足過去現在未来、と書く。称号、官位、実名、在判、年号月日を乳毎に書き入れる』旨が記されている。
 
これと全く同じもの(『年号月日』のみ除く)を『甲陽軍鑑』の『品四十四』に見ることが出来る。また『甲陽軍鑑』は成立が早く、元和7年(1621年)に最古写本が作られている。
 なお、『江源武鑑』も『前書』によれば、同年の『元和7年8月22日』に成立したことになる。しかし全く関係のない作者同士が、全く同じ時期に全く同じ文言を、全く同じ順序で書くとは思えない。
 仮に『江源武鑑』の『元和7年成立説』を否定し、通説通り『明暦2年(1656年)成立説』に従えば、『甲陽軍鑑』と『江源武鑑』の成立には35年の猶予が生まれる。明暦年間には既に有名になっていた『甲陽軍鑑』を、『江源武鑑』の作者が写すことは容易であったと考えられる。
 したがって、本記事から『江源武鑑』は明暦年間に成立し、同書の作者が『甲陽軍鑑』を書き写した可能性が高いと言えるだろう。
 
(第4条・第6条・第16条~第19条について)
『江源武鑑』では以下のように記す。
第  4条:上の幅は空、二の幅は風、三の幅は火、四の幅は水、五の幅は地。
第  6条:紋については次の通り。(梵字を含むため内容省略)
第16条:幕を作る日は金剛奎日、壬癸の日である。
第17条:同じく避ける日は甲乙庚辛の日、辰午申酉戌の日である。
第18条:大将軍の衰日、六害日を避ける。
第19条:六害日 正巳 二辰 三卯 四寅 五丑 六子 七戌 八亥 九酉 十申 
十一未 十二午
 
 これらも『甲陽軍鑑』の『品四十四』と全く同じである。足利将軍の命日を避けるのは重なるのが仕方ないにしても、幕を作る(張るの意か?)まで全く同じというのが偶然とは言えまい。なお第18条に代々の屋形が定めた例外日が記載されているが、『甲陽軍鑑』には同様の例外日の記載はない。 
 

自佐々木大明神代々屋形所伝団図

 ここでは軍配の図が描かれている。ここでは表面と裏面の両方の図が載せられている。
 
 確かに『甲陽軍鑑』の『品第五十三』にも軍配の図が描かれているが、『江源武鑑』記載の裏面に取っ手を付けたような姿をしており、似ても似つかない姿をしている。
面の外周を一周している『白丸・黒丸・白黒丸』の並びも『八』から『十二』までが大分異なっており、『江源武鑑』の作者が『甲陽軍鑑』を引用したとは言えない図になっている。
 また、この軍配は実在し京極家へ『佐々木氏郷』から譲渡されていた事が確認できた。現在では各種の京極家の家宝展や、『文化遺産オンライン』にて『破軍七星軍配』として、その姿を見る事ができる。
 

前書 末文 佐々木家代々の日記消失の事

 
 『江源武鑑』前書末文には、『江源武鑑』の底本となるべき『日記』の行方が記されている。 それによると、本能寺の変が起った2日後の天正10年6月4日に、観音寺城が明智光秀に攻められ、城内から味方の裏切りが出る。それにより『三の丸』に火を放たれ戦闘継続が不可能となり落城。諸書や古代の日記も残らず焼失したとする。
 
通説によれば、太田牛一『信長公記』巻第一の記載では、織田信長が観音寺城に居た六角軍残党の降伏を受け入れ、『元の如く立て置かれ』たとある。これでは『三の丸』への放火は勿論、記録類がすべて焼失などというのはあり得ないことになる。
また、2009年に観音寺城の『伝三の丸』の発掘調査が行われ、『伝三の丸』から火災痕が発掘された。『三の丸』で火災があったとする『江源武鑑』など、『異説』の記述と一致する。
 従って太田牛一『信長公記』に従う限り、『三の丸』での火災は無かったことになり、発掘調査結果に従えば、『三の丸』で火災があったことになり、相矛盾する状態となっている。
 ところで、『異説』の源泉は通説では『沢田源内』の著作とされているが、他にもあったようだ。六角氏の保護を受けていた能楽家である『金春家』にも、『異説』と同様の伝承があったようだ。佐藤 和道氏『桧廼舎文庫旧蔵『金春系譜』所収史料考-吉田束伍博士自筆ノート続稿』131ページには『金春家累代所持仕候系図』が『佐々木六角家散落之時紛失仕候』とあり『異説』と同内容を伝えている。『江源武鑑』に影響を受けた物か否かは判断できかねるが、興味深い史料である。