注釈・江源武鑑 第3巻  

天文10年(1541年)2月4日 近江八幡の由来

この記事では、近江八幡(現在の近江八幡市)にある八幡宮の由来の事について述べている。

 この神社は現在の日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)であると考えられる。同宮の社伝によれば、応神天皇6年(275年)、天皇が近江に行幸、その際奥津島神社に参詣し、還幸の折に当地に御座所が設けられた。年を経た後、その御仮屋跡に日輪の形を2つ見るとの奇端があり、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられた、とする。
 『江源武鑑』でもよく似た記事になっており、作者が何かの方法で日牟禮八幡宮の社伝を入手したと思われる。
 

天文10年(1541年)2月21日 蒲生の川にて珍物発見

この日の記事では、蒲生(現在の滋賀県蒲生郡)の川から、鳥の卵に似たような物が発見されたとする。そして屋形が記録所の面々を呼び、『古い年記』を調べさせたところ、推古天皇27年(619年)3月4日に近江国蒲生の川で形は人の顔のようで目鼻がないものが発見されたと古記にあった、とする。

 この記事の引用元は『日本書紀』であろうと考えられる。『日本書紀』推古天皇27年(619年)夏4月4日の条に、近江国からの報告として、蒲生河に物有り。その形人の如しとする記事がある。
このため『江源武鑑』の作者は、『日本書紀』を自由に読める知識が有ったものと考えられる。
 

天文10年(1541年)3月10日 ネズミの移動

この日の記事では、西近江の鼠が東近江に移った、とする。屋形が古記を調べたところ、天智天皇5年に京の鼠が近江に移ったとあった、とする。

 この記事も『日本書紀』からの引用であると思われる。『日本書紀』天智天皇5年(666年)条に、京の鼠が近江に移った、という記事がある。
 この事からも、『江源武鑑』の作者が『日本書紀』を自由に読めていたことが分かる。
 

天文10年(1541年)4月10日 京極高秀より太刀の献上

この日の記事では『京極高秀』から、新しく生まれた御曹司(後の六角義秀)に対して、太刀が献上された、とする。

 しかし、京極家当主である『京極高清』は、確かに別名を『高秀』ともいうが、天文7年に没している。 
 

天文10年(1541年)6月20日 『すくも』を掘り出す事

近江の国武佐(現近江鉄道武佐駅の周辺)から『すくも』という物を掘り出した事についての記事である。
 この『すくも』について、『江源武鑑』より先行する文献がある。林羅山が著した『多識編』という書物である。この書物は中国の『本草綱目』から物の名を抜き出し、解説をした物である。慶長17年(1612)の成立である。
 この書物の第1巻の中、近江国栗本郡にて地を掘り土を取る。須久毛というという旨の記事が見える。また『すくも』については、佐藤与助氏の『常盤技研 第64号 江源武鑑に於ける「スモク」の記録』が詳しい。
 『江源武鑑』の作者が何らかの資料を基にこの記事を書くとしたら、恐らくは『多識編』に頼ることになるだろう。
 

天文10年(1541年)7月2日 成務天皇の旧跡の事

近江の国(滋賀県)の雄琴に成務天皇がかつて住んでおり、その旧跡があるとする記事である。

 第13代成務天皇の都の場所については、『日本書紀』には記載はないという。しかし『古事記』中巻に『若帯日子天皇、近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。この『高穴穂宮』は、現在の雄琴から南に約3キロ程下ったところにある。大雑把に『雄琴』と言って差し支えない距離である。
 この事から、『江源武鑑』の作者は『古事記』を自由に読めていたことが分かる。
 

天文10年(1541年)9月3日・21日 義実の任官

足利将軍が義実を『三位権中納言・北陸道七ヵ国管領』に任ずるとする記事である。また、義実は、以前は四品の宰相であったとする。

 近江(滋賀県)の別名を『江州(ごうしゅう)』という。従って、この時代に『江州宰相』と言えば、『江州』に住んでいる『宰相』の肩書を持つ人を指し、それに当てはまるのは義実だけである。
 この点から、郷土史家の佐々木哲氏は、『鹿苑日録』天文5年(1536)5月14日条に見える『江州宰相』とは義実の事を指す、としている。
 

天文11年(1542年)2月19日 長命寺の由来と六角秀義の事績

近江(滋賀県)にある長命寺の由来についての記事である。この記事では、長命寺は六角氏第9代当主である六角義秀に由来するものとしている。
 その子細は、元暦元年(寿永3年・1184年)に『元暦の3日平氏の乱』が起り、六角義秀が出陣、奮戦するも討ち死にを果たした。これにより源頼朝から『長命寺殿』という法号を贈られた。また、その長命寺という寺が建立され、義秀が崇められるようになったとする。

 たしかに同年同時期に『元暦の3日平氏の乱』が発生しており、六角秀義が討ち死にしたとする。また、長命寺でも同様の寺伝を伝えているようである。
 しかし、現在は当時の史料探索をしていないので、追って追記をする。 
 

天文11年(1542年)3月19日 北条氏康からの贈り物

ここでは北条氏康から贈り物があった事が記されている。その贈り物の内容について、屋形義実が故事を紹介している。
 その子細は、昔に山名時氏が細川頼之に贈り物をしたという。その後、明徳年間に山名が逆心し、『内野』という所で細川と合戦になったとしている。

 この山名と細川の合戦は、『明徳の乱』の事である。しかし、合戦で山名氏が敗北した事は確かだが、合戦の経緯が通説とはやや異なる。
 

天文11年(1542年) 因果と弘法大師空海の講釈

高野山の文殊院という人物が屋形と面会し、因果について、弘法大師空海の講釈を用いて説明をしたとする記事である。

 ここで用いられている弘法大師空海の講釈は、同人の著書『秘蔵宝論』の中に書かれているれている。なお『江源武鑑』の記事中『執着愛三界』は1文字分誤記をしており、正しくは『封着愛三界』である。
 したがって『江源武鑑』の作者は『秘蔵宝論』を自由に読むことが出来た事が分かる。
 

天文11年(1542年)7月9日 賢聖32人の名前の事

稙道という人物が義実に出会い、紫宸殿の賢聖障子にあるままに、賢聖の名前を書き連ねたとする記事である。

 稙道という人物は、同時代の人物で小野寺稙道に比定する事が出来る。賢聖の人物の名であるが、32名の名前および各人が描かれた障子の場所も正しい。
 したがって『江源武鑑』の作者は、賢聖障子についての情報を、何らかの方法で入手していた事が分かる。
 

天文11年(1542年)8月10日 第一次小豆坂合戦

ここではいわゆる『第一次小豆坂合戦』について触れている。今川勢を4万余、織田勢を2,500としている。

 小豆坂の合戦が天文17年の1回だけであったのか、天文11年と同17年の2回あったのかについては諸説が分かれている。
 史料については諸書あるが、『第一次小豆坂合戦』があったのを天文11年の『8月10日』とするのは、管見の限り『甫庵信長記』のみである。また、同書では今川勢の勢力を『4万余』としており『江源武鑑』の記述と一致する。
 しかし織田勢の勢力については、『甫庵信長記』では『4千』とするのに対し、『江源武鑑』では『2,500』としており一致しない。
 したがって『江源武鑑』の本記事は『甫庵信長記』からの引用であると推察されるが、断言できる程ではない。
 

天文12年(1543年)7月4日 足利直義の掛軸の事

家臣の永原が、足利直義が獨清軒玄恵の末期のとき、薬の包に上書して書いたという和歌一首を秘蔵していた掛軸を屋形に披露したとする記事である。 
 これに対し屋形は、玄恵が作ったとする漢詩を書いて、永原に与えたとする。

 この足利義直作の和歌と玄恵の漢詩の下りは『太平記』第27巻に完全に同じ内容が見える。従って『江源武鑑』の作者は『太平記』を自由に読むことが出来ていた事が分かる。
 

天文13年(1544年)3月20日 武佐桝の事

この年から、年貢を測るのに使う桝(ます)に、従来より2合減らした桝を使用することになった。この桝は近江(滋賀県)の武佐(むさ・現在の近江鉄道武佐駅周辺)にて生産されることになった。故にこの桝を『武佐桝』と呼ぶという記事である。

 この桝は実在し、実際に江戸時代まで広く使用されていた。明暦版『江源武鑑』発行時にも存在・利用されていた。京桝よりも2合少ないのも事実である。
 このことから『江源武鑑』の作者は『武佐桝』の存在を知っていた事が分かる。なお、この桝については井上三郎氏の著書群(『武佐桝考』など)に詳しい。
 

天文13年(1544年)8月21日 土岐範頼

この日の記事では、美濃国主として『土岐範頼(ときのりより)』という人物が登場する。

 この人物は事績からして、一般に知られている美濃国主『土岐頼芸』と同一人物であると思われる。
 しかし『江源武鑑』より先行する文献について。本研究室の調べた限りでは『範頼』という名前が見当たらず、全て『頼芸』で伝わっている。一方で『頼芸』が得意とした『鷹の図』と、同じ画風の『鷹の図』が伝わっている。
 このため通説の言う『土岐頼芸』に関しては、独自の史料があったと言ってよかろう。
 

天文13年(1544年)10月11日 伊賀国の河合安房守実之没す

ここでは、伊賀国の『河合安房守実之』という人物が没したという記事が書かれている。この人物は屋形に対し、年来の忠孝があったとしている。

 この記事とほぼ同じ内容の記事が、『江源武鑑』第2巻の天文6年10月17日条に書かれている。そちらでも長年旗本として仕えたとしているため、『襲名』をした別人とは考え難い。
 この事から『江源武鑑』の作者は『同じネタを何回も使う』事があると言える。
 

天文13年(1544年)11月15日 黒田勘兵衛家の先祖の事

この記事では、黒田勘兵衛の祖先について触れている。黒田官兵衛は筑前国黒田藩初代藩主となった人物であるが。その祖先の事績についてである。
 黒田家は永正8年(1511年)に起きた船岡山合戦にて、不忠の科でお家取り潰しになりそうなところを、屋形に救われたとしている。

 一般的な通説の拠り所とされている貝原益軒の『黒田家譜』は、『江源武鑑』より遅れて出版がされている。従って『黒田家譜』は『江源武鑑』を参考にしたと言われている。本記事はその該当部分である。