注釈・江源武鑑 第2巻

 

天文6年(1537年)8月1日 河越城の戦い

この日の記事では『江源武鑑』では、先月15日に河越城を北条氏綱が夜襲し、上杉朝定が敗死したとする。

 いわゆる『河越城の戦い』の事を述べているが、実際には天文15年4月20日の出来事である。
 

天文7年(1537年)3月28日 野洲川大洪水

近江(滋賀県)で大雨が発生し、野洲川(やすがわ)が決壊、大洪水を起こしたとする記事である。
 その詳細は、大雨は正午頃にあり野洲川堤防が決壊、戸田の郷、津田の郷、幸津河の郷の民家900軒が水没する。近年に類を見ない大雨であったとする。
 
 本記事について、竹林 征三氏・ 中済 孝雄氏による共著の論文『野洲川の歴史洪水とその惨状に関する調査研究』にて、詳しく研究されている。
 それによると、『野洲川の決潰記録は南北流がほぼ固定された14世紀から野洲川放水路が新たに開削されるまでの間に74回に及ぶ。洪水破堤記録を整理し、同じ場所が繰り返し破堤している事実を明らかにした。その箇所は河川工学的には、水衝部や断面変化部である』とされている。
 このため、『江源武鑑』の作者は近江(滋賀県)の洪水について正確な資料を有しており、その資料を基に本記事を書いたものと推定される。
 

天文8年(1539年)3月27日 尼子義久死去

出雲尼子氏当主の死去の記事である。しかし、実際に尼子義久が死去したのは、慶長15年(1610年)であり、大きく死亡年代が異なっている。
 

天文8年(1539年)4月11日 若狭武田信政への輿入れ。

この日の記事では、若狭の武田信政への輿入れの記事がある。しかし『武田信政』という人物は鎌倉時代の甲斐武田氏の当主であり、時代が異なる。この時代の若狭武田家当主は『武田本光』である。
 

天文8年(1539年)11月14日 金泥の系図の事

『江源武鑑』本文にて初登場する、佐々木六角家の家系図の事である。
 
 この系図は現存する様で、現在は佐々木京極家の所蔵になっている。詳しくは磯部佳宗氏の論文に詳しい。

天文9年(1540年)1月11日 天文の飢饉

1月下旬から夏にかけて大飢饉が発生したとしている。
 
 これはいわゆる『天文の飢饉』の事であり、『厳助往年記』等の当時の記録でも確認ができる。飢饉の内容も正しい。
 この事から、『江源武鑑』の作者は『天文の飢饉』に関する史料を持っていたものと解される。 

天文9年(1540年)4月3日 恵心院僧正が阿字の本体を書く

 山門の恵心院僧正が屋形に拝謁。屋形は阿字の本体を訊ね、恵心院は阿字の本体の文を書いたとする。

 日本浄土教高祖六哲の1人である、実範(?-1144) の著作『大経要義抄』の第5巻に同文が見える。したがって『江源武鑑』の作者は、ある程度仏教の経典を知っている人物であると言える。尚、『遠離於目縁』の『目』は誤字で、『因』が正しい。
 

天文9年(1540年)7月8日 音調の調子の事

この日の記事には『音調の調子』なるものに付いての解説がされている。『江源武鑑』の現代語訳のサイト『江州侍』では省略されているので、ここに紹介しておく。
国文学研究資料館の公開画像を参照されたい(別ウィンドウ)。
 

天文9年(1540年)8月12日

この日の記事には『図竹』なるものに付いての解説がされている。国文学研究資料館の公開画像を参照されたい(別ウィンドウ)。

 これはいわゆる『十二律管』の事を指している。雅楽に詳しいサイト『雅楽研究所』によると、音の高さを確認するための物で、パンフルートの様な物であるという。
 また『楽器珍器として、応永19年製の「年次(としなみ)」と応永21年製造の通称「恩徳院(但し、本朝律管の所には、大通寺とあり。恩徳院は大通寺の塔頭)」が挙げられて』おり、『江源武鑑』の作者もこの情報に触れた可能性は高いと言えよう。
 

天文9年(1540年)12月25日

屋形(義実)が京都に上洛し、従四位下、近江守に任ぜられた、とする記事がある。
 
 ところで、一次史料たる『お湯殿の上の日記』の永禄2年5月24日条に贈官の催促と思われる記事が登場する。この中で天文9年の『お湯殿の上の日記』にも『先皇の日記』にも記録が無いと書かれている。
 郷土史研究家の佐々木哲氏はこの記事に対し、これが六角義実の贈官の事である、としている。
 これが事実なら、『お湯殿の上の日記』等には記録がされなかったが、『江源武鑑』の作者の元には、何らかの形で伝承があったという事になる。