第12巻

 

永禄10年(1567年)4月 六角氏式目と江源武鑑 

永禄6年に観音寺騒動が起こり、六角氏重臣の後藤但馬守が殺害された。この事件を契機に六角氏は分裂状態に陥り、弱体化の速度を早めていく。
 この状態を何とか立て直そうと、永禄10年(1567年)4月、六角氏内部で『六角氏式目』という分国法が制定される。その内容は 六角承禎親子と家臣団たちがお互いに規制をするというものである。
 
 『江源武鑑』永禄10年4月条には、六角氏式目が制定された事は記されていない。また、本書を通じて似たようなものが取り交わされた旨の記事も、管見の限り見当たらない。
 従って『江源武鑑』の作者は、『六角氏式目』及びそれに類する、六角氏の内部史料を有していなかったと考えられる。
 

永禄10年(1567年)11月9日 承禎の次男が義久と改名する

六角承禎の次男が『義久』と改名したとする。それについて屋形義秀は、『義』の文字は足利将軍家の諱字であり、将軍家の許可なく使用してはならぬと怒る。これにより次男は『賢永』と改めたとする。

 佐々木哲氏によれば、これが佐々木六角義実の実名の伝承であり、一次史料『鹿苑日録』に見える『義久入道』の事であるとしている。