注釈・江源武鑑 第18巻  

天正10年(1582年)6月2日 本能寺の変 討ち死にの人々

 『江源武鑑』では、本能寺の変において討ち死にした人々を列挙している。ここでは磯部佳宗氏の論文『伝六角氏郷著作の戦国武将評』(中京大学文学会論叢 第2巻 第1号)を引用させて頂き、『江源武鑑』の底本を考察する。以下の図は、人々の登場順と人名である。 
 図に見て取れるように、『江源武鑑』は『信長記』を殆どそのまま丸写ししている。この事から『江源武鑑』は『信長記』より後に成立したと見て問題なかろう。
 もっとも、『信長記』は慶長年間成立説もあるので、即時に『江源武鑑元和7年成立説』が完全否定されるというものではない。
 しかし、この記事により『江源武鑑』の作者が『信長記』を参照していたという事が、ほぼ不動のものになったと言えよう。
登場順江源武鑑信長記
津田又十郎長利津田又十郎殿
なし同源三郎殿
同勘七―殿
同九郎二郎同九郎二郎
同小藤次同小藤次
菅谷 九右衛門菅屋九右衛門尉
子角蔵子息―
菅 谷勝次郎菅 谷勝次郎
山田十右衛門なし
10沢田越中守なし
11猪子兵助猪子兵助 
12村井春長軒 村井春長軒
13子清次子息―
14同作右衛門―尉
15平川十右衛門なし
16毛利 新左衛門 ―尉
17安彦彦三なし
18和田勘介 なし 
19毛利岩丸子息岩丸
20斉藤新五郎斎藤新五郎
21坂井越中守坂井越中守
22赤座七郎右衛門 ―尉
23同助六 舎弟助太郎
24和気善太郎なし 
25井口平九郎 なし
26桜木伝七 桜木伝七 
27団平八 団平八郎
28服部小藤太服部小 藤太
29永井新太郎永井新太郎
30野々村三十郎 野々村三十郎
31篠川兵庫頭篠川兵庫頭 
32下石彦右衛門―尉 
33石原主水正なし
34冨田太郎左衛門 なし
35沢田武介なし
36下方弥三郎 下方弥三郎
37弟喜太郎舎弟―
38塙伝三郎 塙伝三郎 
39亀井又五郎 なし 
40種村彦四郎 種村彦四郎
41春日源八郎 春日源八郎
42寺田善右衛門 ―尉
43阿部佐平太 なし 
44福冨平左衛門 福富平左衛門尉
45桑原吉蔵 桑原吉蔵
46伏田三吉 なし 
47清水三郎兵衛なし 
48三宅権内なし
49藤田仁右衛門なし 
50桑原九蔵 舎弟九蔵
51逆川甚五郎逆川甚五郎
52小沢六郎三郎小沢六郎三郎 
53石田孫左衛門―尉 
54平田万作 なし 
55宮田彦四郎 宮田彦四郎 
56平野新左衛門―尉 
57同勘右衛門―尉 
58中川刑部少輔 なし 
59飯尾茂介 飯尾茂助
60長岡日向守 なし 
61村井新左衛門 ―尉 
62服部六兵衛 ―尉 
63高橋藤丸高橋藤丸 
64佐々清蔵佐々清蔵
65山口十兵衛 なし 
66同小弁山口小弁
67同半四郎 同半四郎 
68木造七兵衛 なし 
69村瀬虎丸 村瀬虎丸 
70小川源四郎小河源四郎 
71神戸次郎作 神戸次郎作 
72大脇喜八 大脇喜八 
73犬飼孫三犬飼孫三 
74河野善四郎河野善四郎
75安元左近 なし
76弓削新兵衛 なし
77石黒彦次郎 石黒彦二郎 
78越智小十郎 越智小十郎 
79中根市丞なし 
80秋山治兵衛なし 
81浅井清蔵 浅井清蔵
82水野惣介水野宗助 
83同九蔵 同九蔵 
84井上又三郎 井上又蔵
85加藤辰介 賀藤辰丸 
86岡部又右衛門 なし 
87竹中彦八 竹中彦八郎 
88河崎与介 河崎与助

慶長元年(1596年)8月14日 毛が降る

 全国で長さ4・5寸程の毛が降ったとする。

 『江源武鑑』では毛が降ったとする記事が多い。ところで、毛の様な物が降る現象は古来から確認されている。一般にこれは火山によって噴出されたガラス質が繊維状に結晶化した『ペレーの毛(火山毛)』であるとされる。
 慶長元年に毛が降ったとする記録は同時代史料にも見え、小泉潔氏が下記論文で述べられているので、纏めさせて頂いた。

地学団体研究会刊行
『地学教育と科学運動』
第68巻 67頁
小泉潔
 
  この様に、複数の同時代史料がこの時期にペレーの毛が降った事を記録しているため、ペレーの毛が降った事自体に疑問の余地は無い。
 「江源武鑑」では閏7月の翌月である、8月14日の出来事としているため、どれを底本にしているのかは断定できない。しかし、二次史料である「佐久間軍記」や「当代記」ですら写本でしか伝わっていない事を考えると、「江源武鑑」の作者がかなり調べ込んでいたと思われる。
 

慶長3年(1598年)醍醐の花見と雪の乾坤

 豊臣秀吉により醍醐の花見が行われる。この際、義郷が
  「聞説醍醐華の世界見来たれは此の処雪の乾坤」
と和歌を詠む。これに対して秀吉が即座に
  「天下残らぬ華の盛には山より山や風にほふらん」
と詠んだとする。 

 この話には 既に磯部佳宗氏が下記論文において疑義を提示されている。

中京大学文学会刊行
『中京国文学』 第28巻 19頁
磯部佳宗
「『江源武鑑』偽書説と黒川道祐--醍醐の花見に関する記事を考察の起点として」

 すなわち、「江源武鑑」はその「前書」で「5家の日記を総合し、元和7(1621年)年8月22日に改めて江源武鑑と号する」と述べている。
小瀬甫庵著「太閤記」は第16巻の「惣構之内へ出入人人奉行事」にて、「心ある御供之中」に乾坤の詩歌を詠った人がおり、「また有人」が天下の和歌を詠ったとしており、両方ともその作者を公表していない。
 「太閤記」は通説では元和8年(1622年)刊行とされる。仮に「江源武鑑」がその前年に成立していた場合、甫庵が同書を参考に著述したとも考えられるが、甫庵が天下の和歌の作者が秀吉である事を隠す動機が無い。
 しかし、「江源武鑑」が通説通りに明暦2年(1656年)に成立したとすると、「江源武鑑」の作者が、「太閤記」において詩歌の作者が公表されていない事を利用して、実は義郷が作者であったと創作する事が出来るのである。以上が磯部氏の主張である。
 なお、当研究室でも「太閤記」以外に、この詩歌と和歌を載せている物は見かけていない。
 
 

慶長10年(1605年)12月15日 慶長大地震

 南海で大波が起き八丈島の近くに一夜にして大山が現れる。今年まであるというとする。

 この記事はいわゆる『慶長地震』の事である。さて、この地震で大津波が太平洋に発生し、大きな被害を与えたのは種々の史料により明らかである。
 問題は『八丈島の近くに一夜にして大山が現れた。今年まである』とする部分である。『江源武鑑』が『太閤記』を元に書かれたとする指摘もあるが、本年はそれよりも後の時代である。『太閤記』を元にして書くことは出来ない。
 また、本研究室の知りうる限り、大山出現の事を記した軍記物語も存在しない。
 しかし、八丈島の住民はその様子を記録していたようだ。杉原重夫・嶋田茂両氏による論文『八丈島,西火山南東麓における最近2,500年間の噴三出物の層序と噴火年代』の中で『八丈嶋年代記』が紹介されている。同書は論文によれば『宗福寺住職の一誉哲心が書き、菊 地武信が筆写したとされていて,承応二年までの八丈島におけるさまざまな自然災害について知ることがで きる』とされており、『江源武鑑』成立以前に成立した物であることがわかる。その他の史料も紹介されており、同島付近に火山島が出現した様子が記録されている。
 『江源武鑑』作者がこれらを見たかどうかは定かではない。しかし八丈島付近に火山島が出現した事を知っていた所から見て、何らかの『実録』を見ていた可能性が高いと思われる。
 

江源武鑑出版年再考

 『江源武鑑』前書には、江陽之日記家々書伝という記事があり、そこで元和7年(1621年)8月に改めて江源武鑑と号する、とする旨の記載がある。

 この点について、磯部佳宗氏が興味深い考察をされている(『江源武鑑』偽書説と黒川道祐)。元和7年刊行とされる、『彰考館文庫本には刊記が認められないため、『江陽之日記家々書伝』を根拠にして刊年を推定したのではあるまいか。』ということである。
 本研究室も、元和7年刊行説は疑義ありとしている。なぜなら明暦2年(1656年)版の巻17の最後に、『荒木利兵衛 開版』とあるからである。
 開版とは、一般的に、その版を使って初めてその書物を出版する事を指す。いわゆる初版本の事である。真に元和7年版が存在するなら、荒木利兵衛は、元和7年版を出版した書林(出版社の事)から、版を買ってこなければならない。すると明暦2年版には、『荒木利兵衛 求版』となるはずだからである。
 但し、逆も有りうる。『国書総目録』では、寛永4年(1627年)版『写本』が存在するのである。仮に元和7年版の原版が、何らかの原因で散逸してしまった場合を考えてみる。この場合には、寛永4年段階では、新たに『江源武鑑』を取得したいと考える者は、該当部分を書写するしかない、ということになる。
 そして明暦2年に、荒木利兵衛が出版しようとした場合には、元和7年版を読みながら、新たに版を起こすしかないのである。この場合には、『荒木利兵衛 開版』となる。また、元和7年版があるにも関わらず、寛永4年に手間のかかる書写が行われた事への、合理的な説明にもなる。