第1章 出自と幼少期の謎(~1640年)

 
  第1節 生年及び父親

 生年について、通説では『大系図評判者遮中抄』の記述に依り、元和5年(1619年)生まれとする。
また、氏郷は晩年に『鳴弦之大事蟇目之深秘』という書物を書き、『吉田助六郎』に渡している。それと同族であろうか、『吉田定秀』なる人物が『佐々貴正統記』(滋賀県立図書館所蔵)を書写している。それによると、寛永2年(1625年)の時点で5歳であったので、元和7年(1621年)生まれとなる。

滋賀県立図書館所蔵
「佐々貴正統記」
請求記号 5‐2800‐エト

 

(滋賀県立図書館所蔵 『佐々貴正統記』)
 以上により、現段階において氏郷の生年は元和7年(1621年)を下らないと推定したい。また、彼の両親に関する史料は、一切見つかっていない。よって両親については不明としたい。 
 なお、前述の京都歴史学・歴彩館所蔵の氏郷直筆「沙々貴大系図」に、「佐々貴正統記」とほぼ同じ主張が書かれている。筆跡から氏郷本人による直筆であると分かるので、参考までに紹介しておこう。

 (京都歴史学・歴彩館所蔵「沙々貴大系図」)

 

  第2節 幼少期に対する、氏郷正統説側の記載


 まず、氏郷を佐々木六角氏の正当後継者とする立場の記述を見てみよう。「佐々貴正統記」によれば、以下の要点を挙げられる。

①寛永7年(1630年)11月9日、「大貮局」より申し上げられた氏郷が、後に皇太后から御愛燐を賜った。
②皇太后から手ずから墨書した硯箱を賜った。氏郷の家にある。

 なお、寛永7年11月9日は、後水尾天皇の譲位に伴い、皇后和子に院号が贈られた日である。また、氏郷生存中に刊行された「和論語」は、以下のように記述する。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「和論語」
請求記号 特18‐863

(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 『和論語.末』)


 これによれば、以下の要点を挙げられる。

①9歳の時に、鳥を籠の中に閉じ込めることについて金言を述べた。
②この事を公家で関白の近衛信達が聞いた。
③天皇の耳にまでその話が伝わった。

 

  第3節 『御愛燐伝説』と『金言伝説』の検証

 では、上記の『御愛燐伝説』と『金言伝説』が正しかったかについて検証したい。
 和論語と佐々貴正統記の著述内容を見る限り、氏郷には元々朝廷や公家衆との繋がりがあったように思われる。
 和論語にいう、9歳の子供が金言を述べたからといって、それが世間に知れ渡り、近衛信達、果ては天皇の耳にまで達するというのは、尋常ではない。通常はあり得ないと考えるのが相当だろう。ただし、もともと近衛信達やその他の公家衆が氏郷の事を知っていれば、あり得る事である。
 この場合には、当時の公家衆の日記等に氏郷のことが、多少なりとも記載されていてしかるべきであると考えられる。逆に言えば、それらに記載がなければ、和論語や佐々貴正統記の著述の内容こそが、創作であったと言うべきである。
 そこで『後水尾天皇実録』で裏付け調査をしてみた。この書物は、宮内庁が御水尾天皇に関する当時の一次資料を用いて、日々の記録を纏めた物である。従って、御水尾天皇が何日に何をしたのかについて調べる根本史料となっている。底本名もつど記載されているので、底本に当たる際の参考にもなる。
 調査の結果、上記を裏付ける記述は一切見つけることが出来なかった。それどころか、どの公家たちも『佐々木氏郷』に関する話題を一言たりとて述べてはいないのである。
 したがって『佐々木六角系譜研究室』は『御愛燐伝説』及び『金言伝説』は虚説であると結論付けたい。 
 以上の通り、異説の主張する『御愛燐伝説』と『金言伝説』については、『後水尾天皇実録』に一切記載が見られない事から、これを否定するべきであると考える。
 逆に通説の主張する『沢田武兵衛の引っ越し伝説』が否定され、『近江加増伝説』も否定されたことから、それも基づく『悪行伝説』についても、それを制止する父親が忍藩に引っ越していないため成り立たない。
 したがって、大変驚くべきことではあるが、現時点では通説(大系図評判遮中抄)及び異説の、双方共誤りの可能性が高い、と言わざるを得ない。
 現時点では、氏郷の幼少期に関しては、決定的に何か史料を見落としているか、伝承されている『事実』と実際に起こった『事実』に乖離があるか、であろう。氏郷の幼少期に関してはもっと史料を集めてからでないと、安易に結論を出すべきではないだろう。