第3章 氏郷30歳頃まで(~1650年)

  第1節 沙沙貴神社とその周辺

 前述の通り氏郷は寛永17年(1640年)に「公事根元抄」を書写しており、氏郷は「寛永庚辰冬如意珠日、佐々貴廿七世管領氏郷」と記している。このため、遅くとも20歳頃からは佐々木六角氏正統後継者として活動をしていたものと思われる。
 また、後述するが林春斎が慶安4年(1651年)9月に沙沙貴神社に奉納した「沙沙貴神社縁起」があり、この縁起の中に「毎歳四月上牛日及五月五日恒例祭礼、今猶不懈也」との文言がある。このため、同年には沙沙貴神社の4月・5月の神事が行われていた事が分かる。
 さらにこれも後述するが、貞享3年(1686年)に黒川道祐が滋賀県の湖東地方を巡っており、その途中で沙沙貴神社に立ち寄った時の事が記されている。その時の事を道祐が「六角中務恙ガ無ヤ否ト問フ、予時々参会ノ由ヲ談ス、」と記しており、道祐が氏郷の安否を心配し、沙沙貴神社の社司が「時々参会」していたものと考えられる。このため、いつの頃からか氏郷が時折沙沙貴神社に「佐々貴廿七世管領氏郷」として通っていた事が窺われる。


 第2節 「佐々木日記」

 これに伴い注目できる史料が存在する。それが和歌山大学付属図書館所蔵「佐々木日記」である。著者・成立年共に不明ながら、氏郷及びその父親の事績を、天正10年(1582年)から寛文2年(1662年)まで、日記形式で記している。
  本書はその内容が、「江源武鑑」の最終記事である元和9年(1623年)までは同書と極似しており、影響を考えると同日分まではそのまま採用するわけにはいかない。
 ただし、寛永7年(1630年)元日条には、天皇の譲位を幕府の使節が引き止めようとした記事や、寛永11年(1634年)3月11日条には朝廷内部の人間でしか知り得なかったであろう、「老人雑話」所収とほぼ同じ歌を載せている。また寛永13年(1636年)11月9日条では、「近江蒲生郡志」第6巻230頁に所収されている、沙沙貴神社への社領安堵状と同内容の記載を載せており、実録でしか書けないであろう記事が増えている。
 したがって、少なくとも氏郷本人が「佐々貴廿七世管領氏郷」と名乗り始める、寛永17年(1640年)以降は実録であると考えられる。


  第3節 氏郷の沙沙貴神社参拝

 この「佐々木日記」には様々な記事が登場するのであるが、その中でも特別に多いのが、氏郷の沙沙貴神社への参拝である。寛永17年(1640年)には既に参拝の記事が登場しており、4月・5月の神事には一貫して参拝が行われている。参拝の方法は、家来と思われる人物による代参もあるが、本人による直参の記事も散見される。黒川道祐と沙沙貴神社社司との間の「六角中務恙ガ無ヤ否ト問フ、予時々参会ノ由ヲ談ス」という会話と一致する。
 この4月・5月の神事の最大の特徴が、定頼系の人々が箕作氏とされている事である。「江源武鑑」刊行の明暦2年(1656年)以前の神事の内容について、確実な史料は無い。しかし、氏郷が寛永年間にすでに神事に参加していた可能性が浮上した事によって、当然に氏綱系正統説の成立が寛永年間まで遡る可能性が浮上してくるのである。この事を以下の史料を見ながら確認してみよう。


  第4節 「寛永年間」の奥書と「氏綱系正統説」

 史料その1 「明智家譜」
 この書物は、明智光秀で有名な、明智一族の歴史について記したものである。成立年については本文の中で、「于時寛永八辛未六月十有三日 妙心寺塔頭六十五歳 玄琳 喜多村弥平兵衛殿」としている。この記述通りなら、寛永8年(1631年)の成立となる。
 その内容に「江州観音城責佐々木義郷」とあり、この書物が成立した時点で、すでに氏綱系正統説が存在していたことになる。この書物が寛永8年(1631年)成立ならば、氏郷はまだ10歳前後であり、「大系図評判遮中抄」及び通説の主張は、崩壊することになる
 妙心寺の玄琳、そして喜多村弥平兵衛とは何者なのか、そしてこの書物は真に寛永8年(1631年)に成立したのか、解明が俟たれるところである。

 史料その2 「総見公武鑑」
 この書物は、織田信長軍の職員録とも言うべきものである。成立年について、一般的には、寛永11年(1634年)に浅井玄卜により編纂されたとする。
 この中に赤座順三撰「備後殿遺言」として「殊に軍法の事は、南西両道に四ケの家とて、京都将軍、江州佐々木家、毛利家、御当家なり」という文言が登場する。足利将軍家に次いで重要視している程の破格の評価である。
 通説では、佐々木六角氏は織田信長の上洛に対し、抵抗の姿勢を見せるも一蹴され、ささやかなゲリラ戦をするのが精一杯のザコ、という見方をされている。
 しかし、本書が執筆された時点が、真に寛永11年(1634年)であるならば、すでに織田軍団の子孫にまで、氏綱系正統説が存在していた可能性があることになる。

史料その3 「美濃国諸旧記」
 この史料は、美濃の国の歴史について記した本である。著者・成立年共に不明なものである。しかし一般的には、寛永時代の記述があるので、寛永の末から正保年間の成立であろうとされる。すると1644年~1648年頃の成立となる。
 その内第2巻の「土岐範頼、松波庄五郎を取立つる事」に「江州の屋形佐々木修理大夫義秀」という記事が見え、氏綱系正統説の存在が見える。
 従って、寛永の末から正保年間の成立というのが正しいのであれば、「江源武鑑」より先行する氏綱系正統説が存在したことになる。

 以上の通りである。当研究室としては、殊更に氏綱系正統説の成立が寛永年間まで遡ると主張するつもりはない。しかしその可能性がゼロではなくなった現在、可能性の1つとして頭の片隅に入れておかなければならないと思う。


  第5節 氏郷と天台山延暦寺

 ところで、前述した「天和3年閏5月20日 佐々木氏郷書上 由緒書」には「宗門は天台宗」という文言があるが、実は幾つかの文献にも同様の趣旨が見受けられる。
 その内の1つが先程の「佐々木日記」である。同書の正保元年(1644年)2月18日条に11日の事として次の記述がある。

(和歌山大学付属図書館所蔵 『佐々木日記』)
 

 「江州管領源氏郷青蓮院尊純法親王為入木之門弟入寺」とある。氏郷は前述の「鳴弦之大事蟇目之深秘」により元禄6年まで生存していた事が確認でき、後述の佐々木氏郷直筆写本「沙々貴大系図」で同年に73歳で没したとされている。
 この事により、「佐々木日記」では24歳で青蓮院尊純の許に弟子入りしたとしている事になる。周知の通り、青蓮院尊純は正保元年(1644年)に天台宗総本山である比叡山延暦寺の住職に当たる、天台座主になったとされているため、これで天台宗へ弟子入りした事になる。
 また、同様の記述は「野洲郡史」211頁以下の「永原氏系図」にも見られる。同系図については「野洲郡史」の筆者が「寛永の島原乱に従軍した人まで載せて居るから原本製作の年代も恐らく寛永を去る遠からぬ時代で、少なくとも正徳以前のものであることは疑へぬ」とする通り、氏郷と同時代の「孝舜」という人物で終わっている。その部分を見てみよう。

「孝舜 山門横川、法印藤本房 佐々貴屋形氏郷朝臣、為護持僧、別当代」

 この通り、「孝舜」が山門(比叡山延暦寺)の僧で氏郷の世話をしていたというのである。またこの系図が氏郷の事を、「人鏡論」での同人の自称「佐々貴管領氏郷朝臣」とほぼ同じ名前で呼んでいる。永原氏が氏郷と関係を持っていた可能性が高いと言えるだろう。
  以上の如く述べた、氏郷の青蓮院尊純への弟子入りについては、尊純側からの裏付け作業を行い得てはいない。しかし可能性は低くはないと思われる。
 なお、「佐々木日記」では慶安3年(1650年)8月1日条にて「於青蓮院二品法親王尊純御許江州管領源氏郷天台之奥義被請持也」として、天台の奥義を取得して修行が終わったとしている。修行年限は6年という事になる。


 第6節 氏郷と「永原氏」の居宅所在地

 ところで、永原氏について「野洲郡史」による解説を見てみよう。

「永原の名字は祇王村大字永原より出たことは明かであって、同地に永原氏の後裔が今日なほ存続している」

 とされている。そして同地に所在する後裔に「永原氏由緒」と題する書物が伝わり、野洲町大字市三宅に居住する三宅四五六郎氏が「永原氏系図」を所持されているとしている。野洲町すなわち現在の野洲市の大字永原と大字市三宅は至近距離にあり直線距離で約2㎞強である。往古から現代までこの辺りに一族が住んでいたのであろう。となると、氏郷生存時にもこの辺りに永原氏の一族がいたと考えるべきであろう。そこで、京都・雄琴・沙沙貴神社そして永原氏邸の所在地を線で結んでみた。


(Open Street Map より)


 いかがだろうか?氏郷は沙沙貴神社に頻繁に通っていたと思われる。そして『永原氏邸』は雄琴からも京都からも、沙沙貴神社への経路上に位置するのである。
 特に同神社はJR安土駅前約600mに所在するが、安土駅と京都駅の間がJRの営業距離で42.8㎞ある。1日だとギリギリ到着できるかどうかである。ところが野洲駅前に所在する『永原氏邸』で1泊すると、安土駅-野洲駅間が13.1㎞、野洲駅-京都駅間が29.7㎞となる。1日で十分走破可能な距離となる。
 このように見ると、『永原氏』が『佐々木氏郷』に関する事績を書き残すことが出来たのは、単なる偶然とは言い切れなくなるのではないだろうか。今後の研究のために、ここに載せる。