第4章 氏郷40歳頃まで(1651年~1660年)

 
  第1節 京都清水寺との交流

 氏郷の活動に関する記録は、承応3年(1654年)頃から明確に増え始める。折しも『江源武鑑』刊行とほぼ時期である。
 さて、前述したが『佐々木氏郷』と同一人物と思われる『六角兵部殿』が、承応3年(1654年)に京都清水寺執行の『田中宗親』から、同人の父『田中清六』の事績を書いた書物を受け取っている。
 この『田中清六』という人物については村上直氏の『初期豪商田中清六正長について』に詳しい。それによると、国内商業に関係し、裏日本沿岸の領主的商品流通に参画した豪商に属するのだという。
 この人物は佐々木六角氏の系譜問題とは関係ない人物である。氏郷が広く史料を集めていた様子がわかる。

 

  第2節 『河端了栄』の証言

 その後、明暦2年(1656年)正月に、氏郷は現在の京都府八幡市にある、石清水八幡宮に参拝した様だ。『招提寺内興起後聞記併年寄分由緒実録』という書物を見てみよう。

『六角兵部丞氏郷 初佐々木四郎ト号 母ハ岐阜中納言秀信ノ女也
 元和7辛酉七月九日御父義郷逝去給フ、四十七歳也、氏郷漸々三歳ノ時也、三十六歳ニ成玉フニ、兼而聞伝有ケルニ、明暦二丙申年正月中旬成カノ氏郷、城刕雄徳山石清水ヘ社参、旧事ヲ思出テ玉フ哉、招提村ヘ尋テ、寺内ノ四代目河端半兵衛正綱ノ居宅ヘ来臨ハ、思モ不寄、賓客饗応叮嚀也、角テ四五日逗留ヲ慰テ閑話、積鬱ヲ散シテ時法を語フ、正綱当夏中迄ニ志賀参入ノ事ヲ約シテ、一九日本国帰リケル、同年四月山王祭懸テ氏郷ノ隠亭ニワケ入ケル、然ニ幸兵部丞氏郷之書法故実得ラレシ事ヲ知テ、何ニモ掛字一紙ヲ望ムニ、甚固辞シテ許サズ、正綱云、当春予カ芳家ニ公来臨ノ時、足利将軍公ノ真翰ヲ御覧ニ入タリ、如此ハ子孫ノ者ノ秘蔵スル所也ト、再三ニ及テ乞レケレハ逃難ク思テ、平常ノ物古語和歌ノ類ハ不珍、家運守護ノ為ニモトテ、祖神之尊号ヲ書テ、永キ記念ニトテ賜之訖、
 佐々貴大明神 唐紙ナリ、朱印二ツアリ 佐々貴管領氏郷書之』

これによると、明暦2年(1656年)正月下旬に、氏郷が4代目河端半兵衛正綱の居宅を訪れている。そして『積鬱を散シテ時法を語』っている。その際、正綱はその年の夏までに『志賀参入ノ事ヲ約』している。そして、4月に『氏郷ノ隠亭ニワケ入』ったのであった。
 氏郷の家にたどり着いた正綱は、氏郷が『書法故実得ラレシ事ヲ知テ、何ニモ掛字一紙ヲ望ムニ、甚固辞シテ許』さなかった。しかし、正綱が再三希望すると逃れ難く思い、氏郷は『家運守護ノ為ニモトテ、祖神之尊号ヲ書テ、永キ記念ニ』として、正綱に渡した。
 それは、『佐々貴大明神 唐紙ナリ、朱印二ツアリ 佐々貴管領氏郷書之』というものであったとする。
この書物は、京都府枚方市にある旧招提寺村の住人で、4代目河端半兵衛正綱の子孫『河端了栄』という人物が記したものである。従って、氏郷の同時代人である正綱が直接記したものではない。
 しかし、氏郷が自書した自称が『人鏡論』での氏郷の自称、『佐々貴管領氏郷朝臣』と同じである。この事から。実際に正綱が氏郷に出会った時の事を、正確に伝えているものと推定できる。
 なお、ここで出てくる2つの『朱印』とは、『江源明流』と書かれた物と『江□』と書かれたものであると思われる(□の部分は判読できなかった)。これについては後述する。

 

  第3節 『佐々木氏郷』の『積鬱』と『時法』

 さて、氏郷は河端半兵衛宅で『積鬱』を散らして『時法』を語っていたのであるが、それは何であろうか? それは、当時の時代背景と『人鏡論』の趣旨を考えれば、すぐに理解されよう。
 すなわち、関ケ原合戦から70年以上経過し戦国時代が忘れ去られようとしていた時代である。忠義や武士道、あるいは信仰心などよりも、即効性かつ有効性のある『金』こそ世の中の全てであるという、町人文化が台頭しつつある時代であった。
 氏郷が言う『積鬱ヲ散シテ』とは、そのような拝金主義のことであり、『時法』とはそんな時代でも通用する法、つまりお金に対する心構えであると解釈すると、両書物の関係をすんなりと理解できる。すると、氏郷が拝金主義を憂い、誠の道を世に広めようとしていた、と結論付けられる。
 これに対し、『大系図評判遮中抄』では、氏郷が人鏡論を書いたことは勿論、氏郷がお金に対する心構えを説いていた事も記していない。著者である『建部賢明』が氏郷の活動の実態を知らなかったのだろう。

 

  第4節 沙沙貴神社の4月・5月の神事

 ところで、滋賀県近江八幡市に所在する、佐々木氏の氏神である沙沙貴神社には、毎年4月と5月に神事が行われている。
 この神事がいつから始まったのか、確かな記録は存在しない。しかし江戸時代から現代に至るまでは、微小な変更はあっても大筋では変化していない。そしてこの神事の最大の特徴は、『定頼系』の人々を『箕作氏』としている点である。
 本書執筆の過程で、この神事の起源について再下限の年を特定する事ができたので、ここに紹介したい。『林春斎』が慶安4年(1651年)9月に沙沙貴神社に奉納した『沙沙貴神社縁起』である。なお、国立国会図書館デジタルコレクションにより、著作権保護期間満了により掲載している。

(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 『近江蒲生郡志』)

 この縁起の中に『毎歳四月上牛日及五月五日恒例祭礼、今猶不懈也』との文言がある。この事で、少なくともこの神事が『江源武鑑』刊行(明暦2年・1656年)の年には既に存在していた事が分かる。
 但し神事の内容については、『沙沙貴神社縁起』からは分からない。可能性として2つが考えられよう。1つは明暦2年以前から現行のままだった。そしてもう1つは、明暦2年以降に現行の形に変化した、というものである。現状においてはそのどちらとも分からないため、結論を保留しておく。


  第5節 『佐々木氏郷』と庭田雅純・重条親子

 さて、近年郷土史研究家の佐々木哲氏が、『系譜伝承論』にて『佐々木氏郷』を真の嫡流であると主張された。同氏は『佐々木哲学校』というサイトを運営されており、その中で公卿の『庭田重条』に言及されている。同氏の論を同サイトから引用してみよう。

『佐々木氏と同じく宇多源氏雅信流の公家庭田重条(右中将雅純次男)が、万治三年(一六六〇)に六角氏を称して従五位下大膳権大夫に叙任され(十一歳)、伏見宮家殿上人になっている。ところが、重条の兄で庭田家を継いでいた侍従雅秀は病気がちであった。重条は寛文五年(一六六五)に庭田家に帰家し、その二年後の寛文七年(一六六七)に兄雅秀が二十歳で没した。庭田家を継いだ重条は、のちに従一位権大納言に至り、武家伝奏も勤めた。
 実は庭田家からは葛岡・大原・見雲(三雲)、勧修寺流藤原氏の万里小路家からは高島など佐々木一流の家名が江戸初期に復興されている。六角家もそのひとつと考えられる。重条が始め六角氏を称したのは、氏郷の名跡を継承してのことだろう。』

 以上の様に氏は主張されている。実は前述の『佐々木日記』にそのきっかけとなった出来事が記されている。同書は氏郷と公卿との交流は全くと言って良い程書かれてはおらず、この点は『後水尾天皇実録』に氏郷の話が出てこない事と共通する。ところが、万治元年(1658年)9月6日条にだけは、突然『庭田重条』の父親である『庭田雅純』が登場する。該当箇所を見てみよう。なお、画像はクリエイティブ・コモンズ・ライセンスにより掲載した。

(和歌山県立大学付属図書館所蔵 『佐々木日記』)

『同日 庭田中将源雅純卿詠一首以送江州屋形氏郷之許其歌曰
又世ニ立皈ラント人ノ云侍ルヲ聞テ  雅純
 心清ク流レイヅトモ山水ノウキ世ノナミニ又ヤニゴラン
返シ               氏郷
 山水ノ清キ流ノ世ニ出ハニゴレル浪ノアラン物カハ』

 庭田重条が六角氏を称して叙任されたのはこの2年後である。今のところ両者にこの様な交流が有ったのか、庭田家の側からの調査は出来ていない。しかし、時期と庭田重条の行動からして、可能性が全くないと即断できる訳でもあるまい。今後の研究のために、ここに載せる。