第4章 氏郷40歳頃まで(1651年~1660年)

 
 第1節 京都清水寺との交流

 慶安3年(1650年)8月1日に比叡山での修業が終わったからだろうか、この頃から氏郷の活動に関する記録が明確に増え始める。折しも「江源武鑑」刊行とほぼ同時期である。
 さて、前述したが氏郷と同一人物と思われる「六角兵部殿」が、承応3年(1654年)に京都清水寺執行の田中宗親から、同人の父である田中清六の事績を書いた書物を受け取っている。この田中清六という人物については村上直氏の『初期豪商田中清六正長について』に詳しい。それによると、国内商業に関係し、裏日本沿岸の領主的商品流通に参画した豪商に属するのだという。
 この人物は佐々木六角氏の系譜問題とは関係ない人物である。氏郷が広く史料を集めていた様子がわかる。


  第2節 「河端了栄」の証言

 その後、明暦2年(1656年)正月に、氏郷は現在の京都府八幡市にある、石清水八幡宮に参拝した様だ。

枚方市史編纂室所蔵
「招提寺内興起後聞記併年寄分并年寄分由緒実録」


 
 この書物は、京都府枚方市にある旧招提寺村の住人で、4代目河端半兵衛正綱の子孫である河端了栄という人物が記したものである。従って、氏郷の同時代人である正綱が直接記したものではない。 しかし、氏郷が自書した自称が「人鏡論」での氏郷の自称、「佐々貴管領氏郷朝臣」と同じである。この事から、実際に正綱が氏郷に出会った時の事を、正確に伝えているものと推定できる。
 なお、ここで出てくる2つの朱印とは、前述の佐々木氏郷直筆「沙々貴大系図」に捺された、「江源明流」と書かれた物と「江□」と書かれたものであると思われる。


 第3節 氏郷の「積鬱」と「時法」

 さて、氏郷は河端半兵衛宅で「積鬱」を散らして「時法」を語っていたのであるが、それは何であろうか? それは、当時の時代背景と「人鏡論」の趣旨を考えれば、すぐに理解されよう。
 すなわち、関ケ原合戦から70年以上経過し戦国時代が忘れ去られようとしていた時代である。忠義や武士道、あるいは信仰心などよりも、即効性かつ有効性のある金こそ世の中の全てであるという、町人文化が台頭しつつある時代であった。
 氏郷が言う「積鬱ヲ散シテ」とは、そのような拝金主義のことであり、「時法」とはそんな時代でも通用する法、つまりお金に対する心構えであると解釈すると、両書物の関係をすんなりと理解できる。すると、氏郷が拝金主義を憂い、誠の道を世に広めようとしていた、と結論付けられる。
 これに対し、「大系図評判遮中抄」では、氏郷が「人鏡論」を書いたことは勿論、氏郷がお金に対する心構えを説いていた事も記していない。著者である建部賢明が氏郷の活動の実態を知らなかったのだろう。


 第3節 沙沙貴神社の4月・5月の神事

 ところで、滋賀県近江八幡市に所在する、佐々木氏の氏神である沙沙貴神社には、毎年4月と5月に神事が行われている。この神事がいつから始まったのか、確かな記録は存在しない。また、その最大の特徴は、定頼系の人々を箕作氏としている点である。
 氏郷生存時にこの神事について触れた人物が居るので紹介したい。林春斎が慶安4年(1651年)9月に沙沙貴神社に奉納した「沙沙貴神社縁起」である。

国立国会図書館所蔵
『近江蒲生郡志』
第6巻
237頁

(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 『近江蒲生郡志』)

 この縁起の中に「毎歳四月上牛日及五月五日恒例祭礼、今猶不懈也」との文言がある。この事で、少なくともこの神事が「江源武鑑」刊行(明暦2年)の5年前には既に存在していた事が分かる。
 また、最上限の年は、天文24年(1555年)に行われた記録が存在する。

国立公文書館発行
『内閣文庫影印叢刊 朽木家古文書』
下巻
444頁・683頁
「天文廿四年四月二日 大神主重吉佐々木大社御神事銭請取状」
「天文二十四年四月五日 佐々木宮御神事銭渡日記」

 この事により、天文24年(1555年)には神事が始まっていたと考えられるため、神事の発祥自体は氏郷の活動とは関係がないと言えよう。
 但し、神事の内容については、「沙沙貴神社縁起」からも天文24年の記録からも分からない。可能性として2つが考えられよう。1つはずっと現行のままだった。そしてもう1つは、いつの頃からか現行の形に変化した、というものである。現状においてはそのどちらとも分からないため、結論を保留しておく。


 第4節 氏郷と庭田雅純・重条親子

 さて、近年郷土史研究家の佐々木哲氏が、「系譜伝承論」にて氏郷を真の嫡流であると主張された。同氏は「佐々木哲学校」というサイトを運営されており、その中で公卿の庭田家第25代当主の重条に言及されている。同氏の論を同サイトから引用してみよう。

 以上の様に氏は主張されている。実は前述の「佐々木日記」にそのきっかけとなった出来事が記されている。同書には氏郷と公卿との交流は全くと言って良い程書かれてはおらず、この点は「後水尾天皇実録」に氏郷の話が出てこない事と共通する。
 ところが、万治元年(1658年)9月6日条に突然、庭田重条の父親である庭田雅純が登場する。

(和歌山県立大学付属図書館所蔵 『佐々木日記』)

 庭田重条が六角氏を称して叙任されたのはこの2年後である。今のところ両者に交流が有ったのか否か、決定的な証拠は無い。
 しかし、実は後世の庭田家には、重条が六角氏の養子になったという伝承がされていたのである。それが庭田家第31代当主である庭田重文が著した「庭田家譜」である。

東京大学史料編纂所所蔵
庭田重文 「庭田家譜」
【請求記号】 4175‐456

 重条に関する最初の行に「為伏見宮殿上人六角某所養」とあり、「伏見宮殿上人六角某の養う所と為る」という意味である。残念ながら実名を「某」としてしまっている為、誰であったのかは分からない。
  しかし傍証でしかないとは言え、庭田家と氏郷家の双方がこの様な伝承を伝えている以上、重条が氏郷の養子だった可能性は、十分に有り得ると言えよう。