第5章 氏郷50歳頃まで(1661年~1670年)

 
  第1節 夢窓国師俗譜

 この書物は、氏郷本人が書いた物とされている。そしてその奥書は、相国寺100代住持汝舟妙恕によって書かれたものである。
 それによると、寛文3年(1663年)9月晦日に、『佐々貴管領氏郷朝臣』が京都の相国寺を訪れた。そして当山の開山夢窓国師の生年について、誤りを正したという。
 ここで、妙恕は氏郷の事を『人鏡論』での氏郷の自称、『佐々貴管領氏郷朝臣』と同じ名前で呼んでいる。このため、実際に妙恕が氏郷に出会った時の記録であると推定できる。
したがって、氏郷が相国寺と交流を持っていたことが推定される。

 

  第2節 佐々木氏郷の和歌と来迎寺和尚の一回忌

 ところで、滋賀県大津市に『聖衆来迎寺』という寺院がある。氏郷が相国寺に立ち寄った翌年の寛文4年(1664年)、同寺の第9代住職利曳和尚が没した。その事は第10代『舜英和尚』が『来迎寺要書』(『滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要』3~5号に翻刻を所収)という寺歴書を書いた際、寛文5年(1665年)10月に利曳和尚一回忌の事を記している事から知ることが出来る。
 この利曳和尚一回忌に際し、『佐々木氏郷』が『悼 利曳和尚一回忌和歌 源朝臣氏郷』と題した和歌を贈ってきたのである。
 幸い、聖衆来迎寺からこの『佐々木氏郷直筆和歌』の掲載許可を頂いたのでご覧いただきたい。

佐々木氏郷直筆 『利曳和尚一回忌和歌』

 

この様に1枚の紙に6首書かれている。この内1首には『むつましく ちきりし事もむかしにて  夢とそおもふ あたしよの中』とあり、氏郷と利曳和尚との交流が相当古くからあったことが察せられる。そしてこの交流は、少なくとも延宝3年(1675年)4月まで続くのである。

 

 

  第3節 先代旧事本紀(ササキ本)と『京極内蔵助』

 氏郷が『利曳和尚一回忌』に和歌を贈った5年後『先代旧事本紀』と呼ばれる不思議な書物が出版された。
 この書物は先代旧事本紀の中でも、『ササキ本』と称されている30巻本であり、『京極内蔵助』から出版された。
 川瀬一馬氏の『増補 古活字版之研究 上巻』によれば、寛永中の活字に若干新雕活字を混ぜて摺刷し、巻末に寛文十年の跋文刊語を付けたものと、付けないものがあるとのことである。また、川瀬氏の同書中巻によれば、跋文刊語に以下の文言が含まれている。

□は判読できなかった文字
『至成頼始改鷦鷯二字為佐々貴三字然後世領江州傳以斯書夫以鷦鷯家譜並永補任従五位嘗後鳥羽院辱染宸翰賜干管領六角泰綱京極氏信兄第今又攝政關白従一位前左大臣藤房輔公自操紫嘗賜干吾家者血脉不絶書傳在干家之餘烈也唯恨陀邦異端日盛本朝神道月衰牟恭惟吾神國之天皇者
 日御種而道己巍巍誰不尊□敬矣其生斯國而貴異法者正可謂神敵乎誤之大者何如焉故□梓斯書以弘家傳□廢道之再興者也因玆謹書干東武
寛文庚戌歳季夏上浣
 八雲軒住央命源朝臣能門』

 これから述べる事は、『京極内蔵助』が『聖衆来迎寺』と関係を持ち、同時期に同寺の和尚であり『来迎寺要書』の作者である『舜英和尚』が、『佐々木氏郷』の祖父とされる『佐々木義秀』の物語を大名相手にしていた可能性が高い、という事である。
 その事を『来迎寺要書』から読み取っていこう。

 

  第4節 『来迎寺要書』による寺歴と『佐々木氏郷』

 『来迎寺要書』は上・中・下の3冊で構成されており、初代住職から寺歴が始まる。長いため必要な部分のみ引用し、途中は(略)とする。それによると

『真玄上人来迎寺中興開山ノ事
(中略)父者佐々木高頼(中略)
元亀元年江州坂本合戦之次第
(中略)江州之屋形義秀(中略)織田九朗森可成両将共ニ討死』

 とし、初代住職が佐々木六角氏当主『佐々木高頼』の子息であったとする。そして『江州之屋形義秀』とするように、『氏綱系正統説』を取っているのである。ここで思い出されるのが、『大系図評判遮中抄』の

『彼偽名三世ヲ実トセンカ為ニ阿党数輩ヲ集メ、寺僧神人等ヲ語ラヒテ、天文六年ヨリ元和七年マテ八十余年カ間佐々木家ノ日記ヲ偽作シテ廿巻トナシ、江源武鑑ト名ケテ刊行ス』

 という記述である。『沢田源内(佐々木氏郷)』が寺僧等と共謀して『江源武鑑』を刊行したという。そして実際に、『佐々木氏郷』と長年関係を持ち、同人が生存している間に『氏綱流正統説』を伝承していた寺が有ったのである。
 ではその活動はどのようなものだったのであろう? 単に共謀し『江源武鑑』を刊行し、『沢田源内(佐々木氏郷)』がその見返りに同寺初代住職を佐々木六角氏につなげる『偽系図』を作っただけなのだろうか? 
 実際はそのような単純なものではなかったようである。さらに『来迎寺要書』を読み進めてみよう。

 

  第5節 『京極内蔵助』と『舜英和尚』の物語
 
 『来迎寺要書』の下には以下のようにある。なお、本節と次節において『□』は全て判読できなかった文字である。

『寛文七年日光東叡両山法事共相勤□々拙僧一人在江戸仕処ニ京極蔵助殿依御肝□木屋ノ松碧老宿処ヘ参始而御知ル人ニ成リ森三左衛門可成公元亀元年ノ坂本合戦之時討死被成候御死骸来迎寺取納干今御廻向仕事具ニ□ニ御物語候此儀森内記殿美作殿関備前守殿御耳ニ立申様ト寛文三年比ヨリ奥田亨安同右松庵老長谷川等哲申達於処ニ終ニ其御沙汰無之条此度貴老能御聞届御耳達申様ニト願申処松碧老早速備前殿具ニ被申述給フ時備前守殿内々奥田亨安同松庵申述義然共内記殿能申聞其後来迎寺住持可遂参会覚悟ニテ打過幸ヒ在江戸之義此度参会可被成ト被仰出松碧参奉承知之段則六月九日細野一郎左衛門家老宿処早天可参之旨木屋氏ヨリ被申越得其意早天ニ家老細野一郎左衛門殿参上仕処ニ早速御披露始而備前守殿懸御目有□御振舞御茶過テ可成公討死之次第御尋真雄上人覚書置之□具ニ御物語申達座中侍イ衆湿涙袖』

 これを意訳すると、次のようになる。
『寛文7年(1667年)、東叡山に法事を務めるため江戸に居た所に、京極蔵助(注『内』が脱字している。文章の後の方では脱字していない)殿が木屋の松碧老の宿に来て知り合いになった。
 元亀元年坂本合戦の時、森可成が亡くなられた。お死骸を来迎寺が引き取って、今も廻向をしている事を具体的に物語り、森内記殿・美作殿・関備前守殿のお耳に達するようにと、寛文3年(1663年)頃より奥田亨安・松庵老・長谷川等哲が申し達つところ、遂にその沙汰はなかった。
 このたび、貴老にお耳に達するようにお願い申し上げたところ、さっそく備前殿に具体的に申し述べられた時備前殿が内々に奥田亨安・松庵が申し述べた。しかれども、内記殿よく申し聞き、その後来迎寺の住持に会うつもりで時が打ち過ぎていた。
 幸い江戸に居るので、このたび参り合うべしと仰せ出され松碧が参り奉ること承知の段、すなわち6月9日、細野一郎左衛門家老宿のところに、早い内に参る旨を木屋氏より申し上げた。
 さて、家老細野一郎左衛門殿の所に参上したところにさっそく披露を始めた。備前守殿におめかけ頂き、お茶のお振る舞いも過ぎて、可成公討ち死にの次第をお尋ねになられた。
 真雄上人の覚書を具体的に物語り、その場にいたサムライ達は涙を流し袖を湿らせた。』

 

  第6節 『舜英和尚』の物語についての考察

 ところで来迎寺の『舜英和尚』は『真雄上人の覚書』を披露している。この覚書にも『江州之屋形義秀』の物語が書かれていたと思われる。なぜなら、『覚書』が定頼系正統説に立っていた場合、同じ和尚が書いた『来迎寺要書』が氏綱系になるのは不自然だからだ。
 したがってこの記事は、佐々木氏郷生存時における、氏綱系正統説が伝播する正にその瞬間をとらえた物だと言える。また『大系図評判遮中抄』の言う、氏郷に協力した『寺僧』が実際にどのように活動をしていたかを述べるものだと言ってよかろう。
 ところで、本記事には興味深い点がある。
①物語を聞いてほしい人物は、『森内記殿』・『美作守殿』・『関備前守殿』となっており、他に侍が沢山いた。
②上記3名の内、少なくとも1人には『細野一郎左衛門』という『家老』がいた。この為、内最低1人は大名クラスだろう。
③寛文3年から同7年まで、足かけ4年も活動をしているため、一時の思い付きで行っていたのではないだろう。
④『長谷川等哲』もこの運動に参加している。かの有名な画家『長谷川等伯』の養子に同名の人物がいるとされる。偶然かもしれないが興味をそそられる。
 以上により、通説たる『大系図評判遮中抄』の言うように、氏郷には『寺僧』の手助けがあった事は間違いないだろうが、その内容は通説と大きく異なっていたと推定したい。少なくとも、『偽系図や偽書を乱造して出版した』等という単純なものではないだろう。
 また、『京極内蔵助』による『ササキ本』の出版も、このような運動の中で行われた可能性が高いと思われる。

 

  第7節 『森内記殿』・『美作守殿』・『関備前守殿』

 ところで、前述した『森内記殿』・『美作守殿』・『関備前守殿』の3名と家老の『細野一郎左衛門』であるが、ほぼ間違いなかろうと思われる人物達に比定する事が出来た。すなわち寛文7年(1667年)当時における、以下の人々である。

『森内記殿』=森内記長継  58歳 (美作藩 第2代藩主)
『美作殿』 =森美作守忠政 31歳 (森内記長継の長男)
『関備前殿』=関備前守長政 56歳 (森内記長継の弟)
『細野一郎左衛門』=(関備前守長政の家老)

 森長継の母は、初代美作藩主の森忠政の娘であり、森忠政の父が元亀騒乱志賀合戦で討ち死にした『森可成』なのである。このため森一族にとっては森可成は祖先であり、その壮絶な最後を聞いて涙したものと思われる。
 現在はこの舜英和尚の物語について、森一族からの裏付け作業を行ってはいない。しかし蓋然性が極めて高いので、何らかの史料が出てくる可能性は高いと思われる。後の研究のためにここに載せる。

 

  第8節 『舜英和尚』の物語と東叡山寛永寺

 この和尚の物語にはまだ続きがあるので、それを見ていこう。

『被致承知拙宅口上之趣細野一郎左衛門書留備前殿躰外御機嫌能及暮御牋申京極内蔵助殿宿処□罷帰明ル十日ニ木屋氏一礼致参上備前殿御馳走御物語申上□具申述東叡山見明院罷帰事』

 これを意訳すると以下のようになる。
『拙宅にて口上の趣旨を細野一郎左衛門殿が書き留め、備前殿のご機嫌がもっての外良かった。
 そして日暮れになってお書き留め申し、京極内蔵助殿の宿へ帰った。明くる10日に木屋氏が備前殿へ物語をさせて頂いた一礼のため参上し、東叡山見明院へ帰ったとの事。』
 この日の記事はこれだけなのだが、気になる部分がある。最後の『東叡山見明院罷帰』つまり木屋氏が東叡山に帰ったとする部分である。東叡山とは江戸寛永寺の事である。木屋氏が東叡山に帰ったという事は、『江州之屋形義秀』の物語も伝えられたと見るのが自然だろう。
 ここでもう一度、通説たる『大系図評判遮中抄』を振り返ってみよう。そこでは『沢田源内(佐々木氏郷)』が六角家当主として水戸家に仕官しようとしたが、『東叡山宿坊吉祥院ノ沙門某ヲ以テ』佐々木義忠に話が伝わり、偽物で作り話である事が露見したとする。
 ならば、『佐々木氏郷』なる人物が偽物であり、『江州之屋形義秀』なる人物が架空であるとの情報が、東叡山にもたらされていたはずだ。そして『沢田源内(佐々木氏郷)』と同じように、聖衆来迎寺の和尚も『偽物語』をしたことが露見、近江に逃げ帰ったはずである。
 ところが、現実にはそうはならなかったのである。『来迎寺要書』を読み進めてみよう。延宝3年(1675年)4月条ではこうある。
『大猷院廿五年忌於東叡山御法事也如先年(以下略)』とあり、徳川家光25周忌法要に参加していた可能性が高い。また、『来迎寺要書』においては『美作殿』・『備前殿』等には『参勤』・『御帰国』の文字が頻出しており、幕府に仕えるれっきとした武士であったことが窺える。
 和尚が『偽物語』をしていたなら、武士たちによってアッという間に広がり、『佐々木義忠』によって『天誅』を食らっていたはずだ。
 したがってこの点からも、通説たる『大系図評判遮中抄』のいう『士官活動失敗伝説』は誤りであった可能性が高い。