第7章 氏郷60歳頃まで(1671年~1680年)

 
  第1節 『佐々木氏郷』による『系図作り』

 さて、神戸能房が激しく氏郷を攻撃していたのであるが、そのような事を気にも留めないかの如く、氏郷は系図の作成依頼を受けていたようだ。それが以下の史料である。
 この書物は、津山藩の軍学師であった正木輝雄が、文化9年(1812年)より個人事業として美作東部を回って伝承・史料の収集を行ったものである。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「新訂作陽誌」
請求記号 249-101

 

  第2節 当家累代記録

 まず、この馬淵氏系図が真に氏郷作であるかについてであるが、『人鏡論』での氏郷の自称『佐々貴管領氏郷朝臣』と同じ名前を名乗っている。このため氏郷作と見て間違いなかろう。
 また、氏郷は系図作成に関与していた。通説によっても異説によっても、氏郷は系図作者であったといえる。ただし、端氏からどのような経路で氏郷への系図作成依頼がなされたのか、その点については今後の調査が俟たれる。
 ところで、通説たる『大系図評判遮中抄』では、氏郷は写本も設けず、記憶のままに系図を書いていたとする。その為に2度書かせると、最初に書いた物と2度目に書いた物は、悉く相違したとする。しかし、実際は『当家累代記録』を底本として書き起こしたとしている。後述するが、氏郷は丸亀藩京極家に「沙沙貴神伝」という系図を譲渡し、現存している。これが「当家累代記録」の可能性がある。
 また、氏郷は自分の父を、『義康』と認識していたと断言してよい。この事は東京大学史料編纂所所蔵「六角佐々木氏系図略」、並びに滋賀県立図書館所蔵「佐々貴正統記」でも、父の事を『義康』であると記し、後に『義郷』と改名したとしている点から見て取れる。また後述の、氏郷自身が書写した「沙々貴大系図」でも『義康』としている点からも明らかである。

 

  第3節 『佐々木氏郷』の『御息女』と『表具之事』

  さて、『佐々木氏郷』は滋賀県大津市の『聖衆来迎寺』と交流があった訳であるが、延宝3年(1675年)4月に彼の娘が登場している。さっそく該当箇所を見てみよう

『延宝三年四月吉辰南都西大寺開山興正菩薩御真筆圓頓者一軸洛下佐目牛清本荒神観音寺代二世権大僧都法印智泉為両親菩提御寄進也
表具之事当国佐々貴廿七世屋形氏郷朝臣御息女為悲母寄進御影堂位牌アリ』

 以上の通り、氏郷の娘が恐らく掛軸であろう物の表具を寄進している。この事から氏郷自身はもちろん、娘まである程度の経済力を持っていたことが分かる。

 

  第4節 仙台藩主の系譜探しと『佐々木氏郷』

 そのような中、その4年後である延宝7年(1679年)には、仙台藩主伊達綱村の命を受けた『落合時成』と氏郷の家人『木村佐大夫』が出会っている。
 この様に時系列でみると、『佐々木氏郷』が活発に活動し、その中で時成との接触があった事が分かる。通説の言うような、氏郷の潜伏などというのはやはり虚説だろう。