第11章 氏郷70歳頃まで(1681年~1690年)

  第1節 氏郷の後継者と丸亀藩主京極家

 
 このようにして過ごしてきた氏郷であったが、年齢が60歳を超えてもまだ後継者に恵まれなかったようである。遂に彼は佐々木六角家断絶を危惧し始めたようだ。そしてちょうどこの頃、氏郷が京都所司代の取り調べを受けている。
 その時の様子を、丸亀藩主京極家に伝来する「六角佐々木氏系図略」所収の、「京極氏家臣某覚書抜萃」によって見てみよう。


東京大学史料編纂所所蔵
「六角佐々木氏系図略」
【請求記号】 2075-341


(東京大学史料編纂所所蔵 「六角佐々木氏系図略」)
 


 

 
 ところが氏郷の祖先に不審点があり、所司代が丸亀藩主京極高豊に問い合わせている。続いて高豊から所司代への返事を見てみよう。


 

 すると、今度は「六角兵部殿」の使者が丸亀城にやってきた。




 続いて兵部殿からの礼状を見てみよう。




 更に3年後の、兵部殿が遠行され時の事であろう話と共に、家宝七品の内訳が伝わっている。



 

 

  第2節 「京極氏家臣某覚書抜萃」の記述は史実か?

 次に上記説話の史実性について検証をしていく訳であるが、結論を先に申し上げると、下記の点により史実であると断言できるので、順次見ていこう。

 ①「江源明流」の印が実在した事
 ②家宝七品が現存する事
 ③京極家伝来品に、氏郷の筆跡で書かれた書物が存在する事
 ④京極家伝来品に、氏郷が使用した印が押されていた事

 

 まずは「江源明流」の印をご覧頂こう。前述の京都歴史学・歴彩館所蔵「沙々貴大系図」の、氏郷による署名部に押印が見える。

 いかがだろうか? 氏郷の署名部に、「江源明流」という押印があるのがご覧頂けるだろう。「江源明流」という印が実在したのだ。
 次に氏郷の「家宝七品」の現存について見ていこう。家宝七品の現存に最初に気付かれたのは、磯部佳宗氏であった。同氏の論文を見てみよう。なお、引用に当たっては、可読性向上のため改行を加えさせて頂いた。


中京大学文学会刊行
『中京大学文学会論叢』
第2巻 81頁
磯部佳宗 「伝六角氏郷著作の戦国武将評 : 浅井長政と蒲生賢秀」


 磯部氏の主張は以上の通りであるが、当研究室の調査によって、別の点からも氏郷旧蔵品である事が確認できた。これらの史料は、丸亀市立資料館に所蔵されているので、まずはご覧頂きたい。

(沙々貴神伝巻)


(沙々貴神伝七相之讖書)

 ところで、「沙々貴神伝巻」巻末部には、追記・署名・花押が見える。ここで思い出して頂きたい。元禄元年死亡伝説の検証の際に述べた通り、これは氏郷の筆跡なのである。この事でも、同史料が氏郷から伝来した事が分かる。また同時に、この頃の氏郷の花押を知る事が出来る。


  家宝七品の他の品について、磯部氏の論文を見てみよう。

 磯部氏の主張は以上であるが、当研究室の調査によって、別の点からも氏郷から伝来した事が確認できた。下記4史料の内、2史料の題名部分に押印が見えるので、注意してご覧頂きたい。

(犬追物絵図)


(佐々貴家犬追物本紀)



(佐々貴家犬追物古実巻)
(題名部分に押印有り)


(佐々貴家犬追物検見矢評議巻)
(題名部分に押印有り)


 ここでもう一度、京都歴史学歴彩館所蔵の氏郷直筆「沙々貴大系図」をご覧頂きたい。同じ印が使われ、完全に一致する事がお分かりいただけると思う。


(左:沙々貴大系図 右:各印影を並べた図)

 いかがだろうか? 「京極氏家臣覚書抜萃」の史実性に関しては、この様に複数の物的証拠が揃っているため、史実であると断言できるのである。

 

  第3節 「江源武鑑」と「二尊旗」

 ここまで見てきたところで、家宝七品の内、「沙々貴神伝」関係1品、犬追物関係1品を見てきた事になる。続けて見ていこう。
 次の品は「錦の御旗」1品である。氏郷本人が、前述の京都大学所蔵「佐々貴家伝」にて、「二尊錦旗白二幅」と呼んでいる。「錦の御旗」の別名が「二尊旗」であり、白色の布地2枚で構成されていた事が分かる。
 そして、実際に京極家伝来品に「二尊旗」と称され、白色の布地2枚で構成された旗が存在するのである。この品は現在、丸亀市立資料館に所蔵されている。「江源武鑑」の前書にもその姿を見る事が出来るので、ご覧頂きたい。



 ところで、丸亀市立資料館所蔵「二尊旗」と氏郷旧蔵「錦の御旗」との関係には、その成立の伝承について下記問題点を孕んでいる。まず同館発行の説明をお読みいただきたい。

丸亀市立資料館刊行
『丸亀市合併10周年記念 京極家の家宝展』

 旗は主に布や紙を材料とし、標識や象徴として用いられ、古くから寺社・朝廷の祭礼や儀式、軍陣で掲げられたものです。平安時代末期の源平の戦いの頃から、敵味方を区別し陣を示すものとして戦での旗の使用が普及しはじめました。当時は、上辺に木をとおして緒(紐)をつけて竿に吊り下げ、たなびかせる流旗でした。室町時代には、上辺と縦の一辺に乳をつけ、竿に通す幟旗が用いられるようになり、流旗に代わってこの形式が全国に流布していきました。
 二尊旗は、白い平織りの絹地を2枚縫い合わせた幅95㎝、長さ360㎝の大型の旗です。上部は牡丹・龍文様をあしらった豪華な錦地を用い八双を取り付け、その両端を四つ目結紋の入った飾り金具で留め、上部に付けられた紐で竿に吊るす流旗の形式をとります。絹地には四つ目結紋と「正八幡太神」「佐々貴太社」の2つの神号が墨書されており、このことから二尊旗と名付けられました。
 「正八幡太神」は源氏の氏神で、武運の神として武士から信仰を集めていた八幡神を指します。「佐々貴太社」は佐々木氏の氏神で、これらの神号は後奈良天皇(1497~1557年)の筆と伝わります。後奈良天皇は、室町時代の百五代天皇で、後柏原天皇の 第二皇子、名筆家としても著名な人物でした。
 「佐々木京極家譜」によると、室町時代の京極家十七代当主高秀の系譜に「後奈良帝へ奉達これあり、宸筆の旗これ下賜申し候」と、「丸亀御城坪割附記」に「後奈良院宸翰、往古旗破壊により、武蔵守高秀時代これ改める」と旗の由来が記されています。

 この事を踏まえた上で、「江源武鑑」の記載と比較しよう。

 二尊旗江源武鑑
 95㎝2尺8寸= 84.84㎝
長さ360㎝1丈2尺=363.6㎝
文字 正八幡大菩薩・佐々貴太社八幡大菩薩・佐々木大明神
宸翰後奈良天皇 (1497年~1557年)村上天皇 (926年~967年)

 
 上記の通り、両者で最も顕著な差異を示すのが、二尊の筆者である。後奈良天皇(第105代)と村上天皇(第62代)では、およそ千年の開きがある。
 ここで幾つかの仮説を立ててみよう。

 第1の仮説 錦の御旗(氏郷偽作) = 二尊旗説
 仮に氏郷が「錦の御旗」を偽作し、京極家に譲渡した事により、「二尊旗」となったと仮定した場合、1つの疑問が湧く。すなわち、「江源武鑑」は既に刊行されているのであるから、墨書の文言が異なっている事の説明がつかない。同書を見ながらそっくりに制作できた筈だからだ。

 第2の仮説 錦の御旗(氏郷旧蔵品) = 二尊旗(伝承変更)説
 仮に、何処かで氏郷が入手した「錦の御旗」が京極家へ伝来し、「二尊旗」になったと仮定しよう。そして、京極家内部で室町時代作へと変更されたとした場合、やはり疑問が湧く。
 なぜ、その事が「佐々木京極家譜」に書かれていないのか、説明がつかないのである。京極家ではその事を隠す必要がないからだ。

 第3の仮説 錦の御旗 ≠ 二尊旗説
 仮に「二尊旗」が天皇家から京極家へ直行し、そのまま秘蔵されていた場合、2つも疑問が湧く。
 第1に、披見できる筈がない「江源武鑑」の作者が、かくも極似した旗を掲載出来た事の説明がつかない。
 第2に、「京極氏家臣某覚書抜萃」が言う「錦の御旗」1流は何処へ行ってしまったのか、という問題が生じる。

 第4の仮説 旧二尊旗→新二尊旗 = 錦の御旗説
 「江源武鑑」では、二尊旗には5本の写しの旗があったとする。また、「丸亀御城坪割附記」では「後奈良院宸翰、往古旗破壊により、武蔵守高秀時代これ改める」とする。仮に「往古旗」が村上天皇時代の旗であると仮定して、それが「破壊」となったので、後奈良天皇宸翰の旗が新たに京極家に下賜され、「二尊旗」となったとしよう。
 だが、そのまま秘蔵された場合は第3の仮説と同じ問題が起きる。そこで、一旦は氏郷家に伝来し「錦の御旗」になり、その後再び京極家に伝来したと仮定しなければならなくなる。
 可能性としてはこれが高いように思われるが、その証拠は今のところ存在しない

 現在の所、上記各説のどれが正しいのか、はたまた別の事実が有ったのか、史料は今のところ存在しない。なお、この二尊旗の制作・所持に関与した可能性のある神社が1つあるので、念のため紹介しておこう。滋賀県大津市北小松914番地に所在する樹下神社である。その内容を田中政三氏が紹介されている。

弘文堂書店刊行
田中政三『近江源氏』
第3巻255頁


 

 現在では氏郷が制作したのか、若しくは他から氏郷の許へ伝来したのか、あるいは万が一に氏郷を介さずに京極家へ伝来したのか、決定打はない。



 第4節 「江源武鑑」と「蒔絵軍配」

 家宝七品の続きを見ていこう。次の品は軍配である。この品も京極家に旧蔵されており、現在は香川県立ミュージアムに「正八幡大神佐々貴大神蒔絵軍配」として所蔵されているので、ご覧頂きたい。なお、同軍配の大きさについては、同館発行のパンフレット『特別展丸亀京極家 ―名門大名の江戸時代―』に拠った。


(左:「正八幡大神佐々貴大神蒔絵軍配団扇」 右:「江源武鑑」)


 この品についても、氏郷旧蔵品であるとの確たる証拠は無い。しかし、「錦の御旗」が氏郷旧蔵品である可能性が高い以上、同じく同人の旧蔵品であると推定される。
 ところで、「正八幡大神佐々貴大神蒔絵軍配」の出所について、少し述べておこう。まずは「江源武鑑」の記載と、大きさの違いについてまとめてみよう。

 蒔絵軍配江源武鑑
全長48.5㎝
84.84㎝
(柄の上から剣先まで1尺5寸、柄の長さ1尺3寸、合計2尺8寸)
全幅24.1㎝42.17㎝(推定)


 この通り、氏郷が「江源武鑑」を実とするためにこの軍配を偽作したとすると、大きさの説明がつかなくなるのである。
 他方、前述の和歌山大学所蔵「佐々木日記」の元和6年(1620年)7月25日条では、伊賀国の八幡八郎義家が所持していた軍配が、氏郷の父親とされる屋形へ伝来した様子が書かれている。
 なお八幡太郎義家とは、平安時代後期の源頼義の長男の事である。鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる人物である。

(和歌山大学所蔵 「佐々木日記」)

 蒔絵軍配 佐々木日記
全長48.5㎝54.54㎝(1尺8寸)
全幅24.1㎝27.27㎝(9寸)

 上記の通り、「正八幡大神佐々貴大神蒔絵軍配」の大きさは、「佐々木日記」記載の大きさとも異なる。
 この為、現状では氏郷が制作したものか、それとも他から伝来したものかは決めかねる。ただ、氏郷誕生以前に制作された可能性を示唆するものとして、ここに紹介しておく。


  第5節 白小袖制限令と氏郷の住所

  ところで、「京極氏家臣某覚書抜萃」の中で、氏郷が白小袖着用の事について職務質問を受けている。
 この点について、実は徳川綱吉の発した命令により行われたものである可能性が高いことが判明した。その事を発見された、上記磯部佳宗氏の同論文の注釈(注釈番号3)を引用しよう。

 

 また、京都所司代とその与力たちは氏郷の家に赴いて職務質問をしている。これは直前の同年5月に浪人改めがあり、氏郷の住所が知られている事から、居宅へ訪問できたのも当然なのである。
 最終的な京都所司代の態度は、「京極氏家臣某覚書抜萃」によれば、その後は何の沙汰も無かったとしている。永補任の書付を所持していることや、京極高豊からの返事を鑑みて不問としたのだろう。
 この様に氏郷は自分の身分と住所を、京都所司代の記録に追加することが出来ていたのである。氏郷は京都所司代にとって公然・公認の存在だったのである。「大系図評判遮中抄」が言うような、逮捕を恐れて潜伏生活をするような必要は、全く無かったのである。