第12章 『佐々木氏郷』の最後

 
  第1節 『佐々木氏郷』の依頼

 晩年の『佐々木氏郷』の元に1つの情報がもたらされたようだ。それは、福岡藩士の宮川忍斎が、天和年間(1681年)頃から『関原軍記大成』を執筆していたのである。忍斎は、多様な書類を出来るだけ収集し、公平にそれらを載せようとした。このため各地の大名や旗本から、記載の依頼が絶えなかった。
 当然、氏郷も色めき立ったに違いあるまい。さっそく『和田氏の浪人』なる家来らしき人物を派遣し、忍斎と面会したようだ。

(国立国会図書館所蔵 『関原軍記大成』)

 この様に、『和田氏の浪人』を通して忍斎に対し依頼をなし、忍斎がそのやり取りを『関原軍記大成』に載せたのである。従って本書を読む人は、次の情報を得る事が出来る。

 ①京都所司代から氏郷に対し、職務質問があった事。
 ②氏郷が永補任の件について主張していた事。
 ③氏郷が徳川家康の御書又は伝記を所持していた事
 ④『六角義郷』という人物が、各種史料に見られない事。
 ⑤しかし、結果的に『関原軍記大成』に掲載された事。

 この内、特に①・②・③については、『大系図評判遮中抄』及び『佐々木氏偽宗弁』の根本史料を考える上で注目できる。

 

  第2節 神道の伝授・そして人生の終わり

 この様にして、神道の極意は『人鏡論』によって世に知らしめることが出来た。佐々木六角氏の系譜伝承も『関原軍記大成』によって世に広めることが出来た。もはや『佐々木氏郷』にとって思い残す事はなかったであろう。
 しかし、この後も彼を頼る人がいれば、可能な限り応えようとしたようだ。元禄6年(1673年)に『吉田助六郎』が鳴弦の儀式について教えを請いに来たようだ。この時に書かれた『鳴弦之大事蟇目之深秘』は、各種儀式について絵を豊富に使い事細かく記されている。
 氏郷は京極家と交流を持った時点で既に痛風を患い、執筆も困難な状況になっていた。このため、本書の書記自体は助六郎によってなされた可能性が高いが、氏郷が懇切丁寧に指導していた事が窺われる。
 そして『鳴弦之大事蟇目之深秘』が、彼に関する最後の記録となる。氏郷直筆の写本『沙々貴大系図』には、氏郷本人が書いたであろう彼自身の沙沙貴神社への願状と、後人が彼の没年月日を記しているので、それらを紹介して本編の終わりとしたい。

               元禄6年12月21日没
                  享年73歳