第3章 佐々木氏偽宗弁と大系図評判遮中抄の比較検討

  
 第1節 氏郷の父親

 佐々木氏偽宗弁では、氏郷の父親について、はっきりと断定していない。『曰く』として阿部忠秋に仕えた『澤田武兵衛』であるとし、『或いは曰く』として、右京進安藤氏に仕えた『次郎兵衛』ともしている。
 つまり、佐々木氏偽宗弁の著者たる佐々木定賢本人が、確固たる証拠を持っていなかったという事が分かる。また『曰く』という表現の通り、これらが外部情報であったことが分かる。
 更にこの内、『阿部忠秋に仕えた澤田武兵衛』であるとする点については、大系図評判遮中抄の場合と同じく、忍藩が近江に加増の土地を拝領した記録が見えない以上、否定をするのが正当だろう。よって『(氏郷父曰澤田武兵衛、仕閣老阿部氏』の部分は誤りであると断定できる。
 同じく大系図評判遮中抄も『武州忍ノ城主阿部豊後守忠秋ニ正保四年ノ比カトヨ加恩ノ地ヲ江州ニ賜リシ時、喜右衛門其家ノ吏官某カ下司ト成テ名ヲ武兵衛ト改メ租税ノ事ヲ司リシニ、万才覚アレハ後ニ忠秋ヨリ忍ノ県令ト成サル』としており、同じ理由で誤りを犯している。
 また、佐々木氏偽宗弁では氏郷の父について、『或いは曰く』として別説を載せているが、大系図評判遮中抄では『沢田武兵衛』であると断定形になっている。この事から最初は2説あったのが、大系図評判遮中抄では説得力を増すために1説に絞られたと見るのが妥当ではなかろうか。
 なぜなら、佐々木氏偽宗弁が後発で、しかも大系図評判遮中抄を信頼していた場合(つまりコピペをした場合)、更に新たに説を付け加える必要がないからだ。そしてこの事は、後述する『佐々木氏偽宗弁』作成の、とある『系図作者』への外注、すなわち丸投げという事実によって、ほぼ不動のものとなるのである。


 第2節 承応2年の士官活動
 
 佐々木氏偽宗弁では、承応2年氏郷が江戸に来て、中山市正を通して水戸家に仕えようとしたとしている。水戸藩主は人を使って佐々木高重(注 大系図評判者遮中抄では『義忠』と表記)に氏郷の事を聞いてみたところ、欺罔であるのでそのような邪説は信じるべきでない、との事であったとし、高重は幕府に対して、氏郷を追跡して誅殺してほしいと訴えたとしている。この記述は大系図評判遮中抄でもまったく同じである。
 しかし、『田中宗親書上』が存在する以上、大系図評判遮中抄と同じく、佐々木氏偽宗弁の主張も、ほぼ不可能であると推定される。 ここでもやはり佐々木氏偽宗弁と大系図評判遮中抄は、同じ理由でほぼ不可能と判断されている。
 

 第3節 京都所司代による氏郷追跡の有無
 
 佐々木氏偽宗弁では、稲葉丹州が京都にいた時に、出生を偽る者を捕縛しようとしていたとされる。そしてそのために、同じく出生を偽っていた氏郷は隠居し、外に出歩くこともせず死亡したとしている。
 この『稲葉丹州』については名を挙げていないが、京都所司代で官名が『丹後守』である、稲葉正通であることが容易に想像される。つまり稲葉正通が氏郷捕縛のために捜査していたというのである。
 しかし史実はこの通りではなかった。確かに氏郷と稲葉の間には接触はあったが、それは徳川家康ゆかりの品を探す、史料探索としてであった。犯罪捜査ではない。
 氏郷は『京都六条道場寺中満願寺』に居住しており、その住所を京都所司代に伝えていた。氏郷は身を隠さず、公然と活動していたのである。
 よって佐々木氏偽宗弁の『晩節京兆尹聞之、有欲生乱族之罪以懲後者、(稲葉丹州君尹京時、欲講生罪置之於法、會丹州君召還東都、其事遂寝、)生自是屏居不出、終於窮屈以死』の部分は、明らかに誤りであると断定できる。
 さて、大系図評判遮中抄正誤表を見てみると、『一年京都ニ於テ官職ヲ矯リ冒ス輩ヲハ、悉ク捕テ死刑ニ処セラレシカハ、源内大ニ驚き、忽ニ太輔ノ号ヲ停テ其身ヲ隠シ』とあり、同じ主張を行い、やはり同じ理由で誤りを犯している事が分かる。