第5章 『佐々木氏偽宗弁』を書いた『系図作者』

 以上に見てきた通り、『大系図評判遮中抄』は、先発と考えられる『佐々木氏偽宗弁』をそのままコピーしただけ、つまりコピペであると考えられる。この為佐々木氏偽宗弁が誤っていると、それに引きずられるように『大系図評判遮中抄』も誤りを犯していると見ることが出来る。
 また『佐々木氏郷』の『佐々貴管領氏郷朝臣』の名乗りが『佐々木氏偽宗弁』に無かったため、同じように大系図評判遮中抄も『佐々貴管領氏郷朝臣』の名乗りのエピソードを挿入できなかったものと考えられる。
 また、佐々木氏偽宗弁で氏郷の父について『或いは曰く』として複数説載せているところから、外部情報に頼っていたことが推定される。ではその『外部情報』の出所を見ていこう。
 さて、佐々木定賢の知人に、『室鳩巣(むろ きゅうそう)』という人物がいた。この人物は定賢の師匠に当たる儒学者である。また、定賢には弟がおり、『祖縁別宗』と名乗っていた。この人物が鳩巣に加賀藩士佐々木家の家譜作成を依頼したのである。
 この事は山田研治氏の『後藤家譜についての一考察』に詳しいので、引用して紹介しよう。

『『後藤家譜』を撰述した祖縁別宗について、彼を評価した同時代人の資料は殆どなく文政期頃に編纂された加賀藩の文化人々名録というべき富田景周『燕臺風雅』文政8(1825 )年にみられるのみである。この文書の前半部は 、祖沖、祖會『槎客通筒集』正徳2(1712)年の関連箇所をそのまま転記しており、両書の関連箇所を石島勇の翻刻と書き下し文とともに載せておいた(4)。
 この両文書から、『後藤家譜』撰者の祖縁別宗についての評価は判明したが、その事蹟は 、李元植『朝鮮通信使の研究』(1997年 )や『相國寺史料』第3~4 巻(5)に詳しく、それらを基に石島勇が年譜を作成し附した。
 なお、富田景周が収集した祖縁別宗の詩文に、室鳩巣(1658~1734年)に別宗の兄佐々木定賢に代わり家譜の製作依頼を行ったという詩文がある。』

 要するに佐々木家譜の作成について、佐々木定賢が師匠である室鳩巣に丸投げをしたのである。依頼を受けた鳩巣は、前述の『関原軍記大成』等を読みながら『佐々木氏偽宗弁』を書いたのであろう。これがため、鳩巣が気付かなかったことには、当然の事ながら定賢も気づかなかったのである。