注釈・江源武鑑 第4巻 上  

 

天文14年(1545年)9月15日 武烈天皇と火の雨

屋形が『岩倉山』へ出かけ、岩穴が多くあるのを見る。そこで記録所の面々に調べさせると、武烈天皇2年に火の雨が降り、諸国の人々は石室を作って難を逃れた、とする記事である。また、推古天皇9年にも火の雨が降ったとしている。そして、武烈天皇は古今に例のない悪王であったと旧記にあるとしている。

 『古事記』でも武烈天皇が悪王であったとする記事が、該当記事の最後の方にわずかに登場する。しかし具体的な行動は記されていない。全般的に『古事記』では肯定的評価を下している。『日本書紀』では、武烈天皇が悪逆非道な王であり、非道の数々を具体例をあげて紹介している。したがって『江源武鑑』における武烈天皇の記事は、『日本書紀』に依っていると言ってよかろう。
 しかし、『古事記』『日本書紀』共に、武烈天皇2年に火の雨が降ったという記事を載せておらず、これは『江源武鑑』の作者による創作か、もしくは『記紀』以外からの引用であると思われる。愛知県豊川市にある『穴観音古墳』も同様の伝承を持っているようだが、『江源武鑑』成立との前後関係は不明である。
 なお、『岩倉山』とは、現近江八幡市岩倉に所在する同名の山であると推察される。確かに巨石を使用した岩穴などもあるようだ。
 

天文15年(1546年)4月29日 北条早雲の出自

ここではいわゆる『北条早雲』の出自について触れている。もともとは『伊勢新九郎氏茂』という名乗りであったが、関東に来て北条氏を興したとしている。

 北条早雲の実名を『氏茂』とするのは、寛永(1624年~1645年)及び万治(1658年~16661年)に出版された『北条五代記』に見える。寛永期には既に出版されているので『江源武鑑』の作者を同書を読み、本記事を挿入することが出来る。
 

天文15年(1546年)7月14日

近江国野洲郡(現在の野洲市)の『井ノ口』という所から、湧き水が湧いたとする記事である。

 この場所は現在の野洲市井口であると考えられるが、湧き水は現存しない。
 

天文15年(1546年)11月15日 上田原の戦い

上田原の合戦について述べている。それによると、同月3日に上田原で合戦があり、武田信虎が2千の兵で敵5千に勝利したとする。

 これはいわゆる『上田原の戦い』の事を述べている。しかし、実際に上田原の戦いがあったのは天文17年2月14日であり、日付を間違えている。
 また武田信虎は武田信玄の父親であるが、信虎は天文10年に信玄によって追放されており、武田軍として合戦をするのは不可能である。ところで、底本についてであるが
『甲陽軍鑑』の場合:
 武田軍は8千余、村上軍は5千余(又は7千余)となっており、敵軍5千については一致する。しかし武田軍については大きく異なっており、『甲陽軍鑑』が底本ではないと考えられる。
 

天文16年(1547年)2月17日 足利義輝に対する将軍宣下

ここでは、この日に足利義輝に対する将軍宣下がされたとしている。

 実際に将軍宣下がされたのは、天文15年(1545年)12月20日である。
 

天文16年(1547年)11月10日 疫病の流行と一条天皇

同年に疫病が流行し、足利将軍が多数の宮を造営したとする。またその由来を、一条天皇の治世中に、京中で疫病が流行し多数の死者が出たので、紫野に疫神を勧請した事によるとしている。

 確かに現在も存在する、京都市紫野の『今宮神社』の社伝でも同内容を伝えている。一条天皇の時代は、古事記・日本書紀のいわゆる『記紀』よりずっと後の時代なので、『記紀』を元に書くことは出来ない。
 したがって『江源武鑑』の作者は、この記事に関する何らかの底本を有していたと推定される。