第4巻 下

 

天文18年(1549年)1月20日 尼子国久の末路

ここでは出雲尼子氏初代の、尼子経久の次男である尼子国久が、近江に浪人としてやってきて、屋形義久の保護下に入ったとしている。

 実際には尼子国久は死亡時まで出雲に在国しており、管見の限り近江に来た様子は見えない。また天文23年(1554年)11月1日に尼子氏当主である尼子晴久によって暗殺されている。
 

天文18年(1549年)3月15日 近江君ヶ畑にて銀を掘る

近江の『君ヶ畑』にて白銀を掘り出したと家来から報告があったとする。以降同所にて『金』を掘るとする。

 本記事の後半が『金』となっているが、正しくは『銀』である。この君ヶ畑の銀山は埋蔵量が豊富であったようで、江戸時代中期に最盛期を迎えている。採掘量は、支配下に置いていた彦根藩に詳しい記録が残っているようである。
 この鉱山の記録は『江源武鑑』以前の物を見つけることが出来なかった。調査された別の方のサイトでも、やはりこれといった成果は上がっていないようだ。
 君ヶ畑という場所は鈴鹿山脈の最深部に位置しており、独自史料なくこのような場所の、しかも鉱山という機密情報に触れたとは考え難いものがある。
 従って『江源武鑑』の作者は、本記事に関し独自史料を有していたと推定してよかろう。 
 

天文18年(1549年)3月29日 馬渕丹後守実冬没す

 馬渕丹後守実冬が没したとする。実冬が次男與藤次を寵愛し譲状を与えたが、屋形義実が嫡流である長男と次男に半分ずつにすると決めたとする。
 
 『馬渕丹後守実冬』なる人物は、『佐々木氏郷』が寛文13年(1673年)9月に書いた、『東作誌』所収の『馬淵系図』に見える。『江源武鑑』の『前書』記載の軍配と旗を所持していた事といい、『佐々木氏郷』が『江源武鑑』と無関係であったとは言い難いと言える。

天文18年(1549年)9月19日 白熊と土岐太郎光方

白熊が見つかり天皇家に献上されたが、熊の頭に札がついており『承久元年1月10日土岐太郎光方』が捕らえたと書いてあったとする。

 『土岐光方』なる人物は『尊卑文脈』の注記に見えるようだ。
 

天文19年(1550年)4月9日 万葉集の歌

屋形義実が京都から来た真儒に、人をもどくという意味について質問した。真儒は『痛醜賢良すとて酒不飲人を熟不見かも似る』という歌が万葉集にあると答えたとする。

 この歌は実在し、『万葉集』の第344番に収録されている。この事から『江源武鑑』の作者は『万葉集』の知識が有ったことが言える。
 

天文20年(1551年)3月22日 武備百人一首

ここでは兵法に役立つ和歌を100首載せている。

 弘文堂書店から昭和57年(1982年)に出版された『縮刷 江源武鑑』では、縮刷の際にミスがあったと思われ『江源武鑑巻四下 二十五』が欠落している。このため同書を参考にされているサイト『江州侍』でも欠落している。 ただ、国文学研究資料館が原本をインターネット公開されているので、該当箇所を見ることが出来る。
 

天文20年(1551年)9月16日 織田信長が海津合戦にて勝利

織田信長が尾張守護代の清洲織田家(織田大和守)と海津という所で合戦し、勝利したとする。

 これはいわゆる海津合戦の事を述べている。信長方が勝利したことは間違いないが、年・月が誤っている。正しくは天文21年(1552年)8月16日の事である。