第5巻

 

天文22年(1553年)3月20日 天文の縄(全国検地)

足利将軍から各大名へ領地を記し、書状をもって申告するように命じたとする。以下各国の石高が列挙されている。そしてこれを『天分の縄』と言うと説明している。

 当時の足利幕府は既に衰退しており、全国の大名に対して統一的に支持を出せる状態ではなかった。また、そのような命令があったという、当時の史料も管見の限り一切ない。従って当時にこの様な物は無かったと断言していいだろう。
 また、列挙されている石高を、ウィキペディアに記載されている、豊臣秀吉による『太閤検地』の結果と比較すると、以下の様になる。尚、小数点以下は切り捨てる。
国名江源武鑑太閤検地
山城国 同右22万5262
大和国 同右 44万8945
河内国 同右 24万2105
和泉国 同右 14万1512
摂津国 同右 35万6069
伊賀国10万623 10万0000
伊勢国56万7005 56万7105
志摩国 同右   1万7854
尾張国 同右 57万1737
三河国 同右 29万0715
遠江国 同右 25万5160
駿河国15万3800 15万0000
甲斐国22万7106 22万7616
伊豆国 同右  6万9832
相模国 同右 19万4304
武蔵国66万7106 66万7126
安房国  4万5015   4万5045
上総国 同右37万8892
下総国 同右 39万3255
常陸国53万2100 53万0008
近江国82万5379 77万5379
美濃国54万3000 54万0000
飛騨国  3万8105  3万8000
信濃国 同右40万8358
上野国 同右 49万6377
下野国 同右 37万4083
陸奥国 同右 167万2806
出羽国   同右 31万8095
若狭国8万5310   8万5000
越前国67万9870 49万9411
加賀国 同右35万5570
能登国21万5000 21万0000
越中国38万2098 38万0298
越後国 同右39万0770
佐渡国 同右  1万7030
丹波国 同右 26万3887
丹後国 同右 11万0784
但馬国11万0773 11万4235
因幡国8万8520  8万8500
伯耆国 同右 10万0947
出雲国 同右 18万6650
石見国 同右 11万1770
隠岐国 同右    4980
播磨国 同右 35万8534
美作国 同右 18万6018
備前国26万1762 22万3762
備中国 同右 17万6929
備後国 同右 18万6150
安芸国 同右 19万4150
周防国 同右 16万7820
長門国 同右 13万0660
紀伊国14万355024万3550
淡路国 同右   6万2104
阿波国 同右 18万3500
讃岐国 同右 12万6200
伊予国 同右 36万6200
土佐国 同右   9万8200
筑前国33万5690 33万5695
筑後国 同右 26万5998
豊前国14万3070 14万0000
豊後国 同右 41万8313
肥前国30万9035 30万9935
肥後国34万0220 34万1220
日向国 同右 12万0088
大隅国 同右 17万5057
薩摩国 同右 28万3482
全国総計1869万7242 1850万9043
 
戦国時代と安土桃山時代では、幾分石高は変わっているはずである。しかし殆どの数字が同じである。この事で明らかな通り、『江源武鑑』でいう『天文の縄』なるものは、実は『太閤検地』の数字の丸写しなのである。
 ところで、数字が大きく異なる国が4つある。近江・越前・豊前・紀伊の4か国である。『江源武鑑』は六角氏を主人公に据えており、越前朝倉氏を六角氏の味方としている。このため近江と越前の石高に手心を加えたとも思える。
 紀伊国は石高が減らされている。神戸能房が寛文6年(1666年)に『伊勢記』にて、『江源武鑑』の作者が『沢田氏郷』であるとし、『大国賊と』糾弾した事と関係があるかもしれない。
 豊前国に関してはよくわからないが、何らかのことを暗示しているのかもしれない。
 

天文22年(1553年)4月3日 宇佐八幡宮での噴炎と古記

近江国志賀の宇佐八幡宮にて噴炎があったとする。その上で旧記を調べたところ、建長4年8月18日に、京都北野神社後方の芝から火炎が出て高さ五丈ほども燃え上がり杉の梢にまで達した記録があったとする。

 『京都叢書』によれば、鎌倉時代に成立た、公家などの日記を抜粋した『百錬抄』に同内容の記述があるとする。但し月を『江源武鑑』では8月とするのに対し、こちらでは同年11月18日とする。『百錬抄』で『建長4年』の頃は後鳥羽上皇時代であり、『百錬抄第10巻』である。しかし同巻にはそれらしい記事は見えない。別の個所に記載されているものと思われる。発見しだい追記する。
 『吾妻鏡』が武家側の記録であるのに対し、『百錬抄』は公家側の記録である。しかも本件の噴炎の記録はあまり広く伝わらなかったようだ。『江源武鑑』の作者が、『百錬抄』もしくはその底本など『実録』を読んでいた可能性が高いと言える。
 

天文22年(1553年)5月24日 竹生島の白い筋と石橋の古記

竹生島から箕浦へ白い筋が一本通るとしている。その上で古記を調べると、康安元年竹生島から箕浦までの3里余りの湖上に石橋が現れた事があるとする。

 この竹生島からの石橋出現の事は、『太平記第38巻』に同内容が見える。従って『江源武鑑』の作者は『太平記』を読んだ事があると言えよう。
 

 天文23年(1554年)7月20日 志賀寺の上人と古歌2首

屋形義実が近江国志賀寺へ行き、世俗に語り継がれる事を思い付いて、それにまつわる古歌2種を直筆したとする。志賀寺の上人と京極御息女の恋の話である。

 この物語と2首の古歌と全く同じものが『太平記第37巻』に見える。やはり『江源武鑑』の作者は『太平記』を読んでいたと言っていいだろう。
 

天文23年(1554年)8月11日 後藤家の門への落書き

 後藤但馬守の館の門に何者かが、『富貴家鬼睨之』という言葉を書き付けたとする。続いて、後藤家の権勢が盛んな事を述べる。
 
 太平記第39巻の『神木入洛事付洛中変異事』に、『富貴の家をば鬼睨之云り』という文言が見える。後藤家は権勢が盛んで、後の永禄観音寺騒動で後藤家当主が殺害されてしまう。富貴の家を鬼が睨むという言葉は、この事を説明するにはちょうどいい言葉である。
 『江源武鑑』の作者が、相当丹念に『太平記』を読み込んでいる様子が見て取れる。
 

天文23年(1554年)10月24日 白山の延暦寺末寺化について

 白山の執行代を山門から配置したため、白山と山門との間で争論が起こる。しかし最終的には山門が下知をすることになる。旧記によれば久安3年4月28日に白山が山門の末寺となるとある。
 
 
 『福井県史』通史編2の、第1章第1節2によれば、『平泉寺の延暦寺末寺化』と題して、当時の史料から以下の旨を述べる。
 すなわち、 鳥羽院政期に平泉寺を支配していたのは、園城寺の僧覚宗であった。彼の在職によって当時平泉寺が園城寺の末寺であったようにもみえるが、その支配は「年来、権僧正覚宗、院宣によってこれを領す」とあるように(「台記」久安3年4月7日条)、彼個人が院の権力を背景に平泉寺を支配していたに過ぎなかった。 
 ところが久安3年(1147年)4月7日、延暦寺の僧綱・已講らが院の御所に群参し、覚宗の平泉寺社務執行を停止して、山門(延暦寺)の末寺にするよう訴える事件がおこる。(「本朝世紀」同年4月13日条)。院は、覚宗没後に末寺化の宣下を行なうことを約束し(『台記』同年6月23日条)、仁平2年(1152年)9月の彼の死とともに、平泉寺は延暦寺の末寺に入ったようである。

 「本朝世紀」は後鳥羽院の命により1159年頃成立している。また、「台記」は保元の乱(1156年)の首謀者・藤原頼長の日記であり、どちらも当時の記録である。
 「江源武鑑」の作者がこの情報を正確に知っていたという事は、「本朝世紀」などの史料に触れる事が出来た事を示す。