第12巻

 

永禄3年(1560年)5月21日 桶狭間合戦

 ここでは桶狭間合戦について、詳細に語られる。
最初に織田方の各兵力の配置人数について、各史料と比較してみよう。
砦名江源武鑑信長公記信長記その他(高橋学氏)
今川軍総兵力4万余4万50004万50002万5000(通説)
丹家砦343記述なし記述なし340 
善照砦450記述なし記述なし450 
中嶋砦260記述なし記述なし250
丸根砦150記述なし記述なし400
鷲津砦520記述なし記述なし520
 
表をご覧になっていただくと分かる通り、太田牛一『信長公記』及び小瀬甫庵『信長記』のいずれにも各砦の守備人数は記されていない。高橋学氏は論文『環境史からみた信長の時代Ⅰ』にて各砦の守備人数を示されている。氏は恐らく砦の面積から守備人数を割り出されたものと推測される。
 驚くことに『江源武鑑』に記された各砦の守備人数は、丸根砦以外はほぼピタリと高橋氏の提示と一致するのである。『江源武鑑』の作者が桶狭間合戦について、独自史料を有していた可能性も否定し切れないのである。
 この事は江戸時代の史料ではあるが、近年に発見された『桶狭間合戦討死者書上』の数字とも一致する。同資料では織田方に六角氏からの援軍が含まれており、内272人が討ち死にしたとする。『江源武鑑』では、雑兵38人が討ち死にして負傷者が272人となっている。負傷と討ち死にで異なってはいるが、272人という数字が一致している点は留意しておいてよかろう。なお、今川方と織田軍の戦死者数は全く異なる。
 他方戦闘の経緯は、『信長公記』より『信長記』の方が『江源武鑑』に似た記述になっている。すなわち『信長公記』の記述では、『おけはざま山』にいる今川義元の本陣へ一直線に正面突撃を行っている。
 対して『信長記』では、大きく迂回して山に登り、窪地にいた義元本陣へ奇襲攻撃を行っている。この際奇襲攻撃が露見しないように山際までは旗を巻き忍び寄ったとしている。『江源武鑑』でも旗・腰印等を捨て、馬のクツワに紙を巻き、兜を差し置いたとする。『信長記』と一致するのである。
 また、『江源武鑑』では、オケハザマの山の後ろに登り義元の本陣に斬りかかったとする。義元本陣が山の上にあったのか窪地にあったのかはっきりしない書き方ではある。しかし、迂回して奇襲をかけたとする点は『信長記』そのままである。なお、時刻は夜中に変更され、夜討ちになっている。
 この事から『江源武鑑』の作者は、桶狭間合戦の経緯については、『信長記』を参考にして書いたものと思われる。
 

永禄4年(1561年)2月18日 尼子氏の嫡流が近江へ逃れる

雲州の尼子氏嫡流である尼子忠高が、毛内元就に国を奪われて近江にやってきたとする。

 尼子氏当主は、先代である尼子晴久が前年の永禄3年(1560年)12月に死去しており、この時の当主は尼子義久である。また、尼子氏が毛利氏によって本格的に衰退に向かうのは、これ以後にある雲芸和議による尼子氏内部の動揺による。
 

永禄4年(1561年)5月16日 森部合戦

去る13日に美濃国森部にて合戦があり、織田信長が大勝利し首730余を取ったとする。

 いわゆる森部合戦の事である。ところで打ち取った首の数であるが、太田牛一『信長公記』では170余、小瀬甫庵『信長記』では320余とあり、『江源武鑑』の730余とは大きく異なる。
 

永禄4年(1561年)8月16日 名取川と藤原定家の古歌

屋形義秀が近江の名取川で鷹狩をする。そこでこの名取川の事を詠んだ歌はあるかと尋ねたところ、京極長門守が藤原定家の歌があると京極が答えたとする。
 
この歌は『続後撰和歌集』に収められている。この事から『江源武鑑』の作者は『続後撰和歌集』又は類似した資料を持っていた事が分かる。
なお、『名取川』という川は本来、宮城県仙台市及び名取市を流れる川である。近江にいう『名取川』とは、現在の『犬上川』の別名である。

永禄4年(1561年)9月18日 川中島合戦

さる9日に川中島合戦があり、上杉謙信が武田信玄に大勝したとする。また謙信が信玄の本陣に討ち入り太刀にて信玄を討ち取りかけた事が何度もあったとする。
 
いわゆる『川中島合戦』である。 ところで有名な『一騎打ち』の話は『甲陽軍鑑』に見られる。この事から、『江源武鑑』の作者は『甲陽軍鑑』を読んでいた可能性が高い。
 

永禄4年(1561年)10月10日 松江城落城の事

尼子氏の家臣が毛利氏の松江城を攻め落としたとする。
 
松江城は慶長16年(1611年)に完成しているため、永禄4年時点では存在していない。なお、松江城が建つ前は『末次城』というものが存在した。