第10巻

 

永禄5年(1562年)3月23日 屋形義秀と承禎父子の和解

京都から細川藤孝がやってきて、屋形義秀と承禎親子の和解を斡旋、成立したとする。そのて成立の祝いに藤孝が1首の和歌を詠んだ。
『こほりいし 津田の入江も 打とけて 国もゆたかに 春風そ吹』

 この和歌は、『本歌取り』すなわち二次創作であったと思われる。仁平元年(1151年)成立の『詞花集』第1巻の最初に大江匡房の和歌が収められている。
『氷りゐし 志賀の唐崎 うちとけて さざ波よする 春風ぞ吹く』
 従って、『江源武鑑』の作者は『詞花集』を知っており、そこから本記事を挿入した物と思われる。また『江源武鑑』作者の、和歌に対する豊富な知識の程が見て取れる。
 

永禄5年(1562年)5月13日 信長が西美濃で合戦をする。

織田信長より報告があり、今月13日に西美濃に進撃、斎藤方も出撃してくる。信長は墨俣城から九条城に移りそこから出撃した。合戦があったが夜になって引き分けになり、墨俣城などに兵を残し尾張に帰ったとする。

 この記事は小瀬甫庵『信長記』から取った可能性が極めて高い。それを検証するために、まず太田牛一の『信長公記』及び瑞龍寺文書を見ていこう。
 『信長公記首巻』に『もりべ合戦の事』という記事がある。年未詳で、5月13日に信長が木曽川と飛騨川を越えて美濃国に攻め込んだとしている。翌14日に美濃勢が墨俣から出撃してきて、森部で合戦になったとする。
 続く記事『十四条合戦の事』では永禄4年5月上旬に、信長が木曽川・飛騨川を越えて西美濃に攻め込んだとしている。信長が墨俣城から出撃、合戦になったが夜になって引き分けになった。24日に信長は墨俣城に帰城、その後墨俣城を引き払い尾張に帰還したとする。瑞龍寺文書には13日に国守(斎藤義龍)逝去、信長が尾張から国境まで攻め込んだが、さしたる手だてもなく在陣していた旨が書かれている。
 したがって、実際には『永禄4年5月11日に斎藤義龍が死亡。13日にドサクサに紛れて信長が出陣してきたが、翌14日には墨俣からすぐに斎藤勢が攻めてきた。森部でこれを撃破した信長は墨俣に陣地を築く。そこから再び出撃し合戦になったが、夜になって引き分けになった。24日に信長は墨俣陣地に帰ったが、さしたる手だてもないので尾張に帰った』のである。
 しかるにこれを小瀬甫庵が読み間違えてしまった。『信長記』では『美濃国森部合戦事』にて、永禄4年5月上旬に信長が西美濃に進撃、森部で合戦をし翌14日に尾張に帰還したとする。
 続く記事の『美濃国賀留美合戦事』では翌5年に再び西美濃に出撃、墨俣城に着いたところで敵が出撃してきた。そこで信長は九条城に移動、そこから出撃して合戦になったが、夜になって引き分けになり尾張に帰ったとする。
 つまり、実際は永禄4年5月13日から24日までの一連の事件が、『信長記』では永禄4年と翌5年の事件に分離しているのである。
 『江源武鑑』でも同じように分離している。このため、この記事は『信長記』からの引用と言っていいだろう。
 

永禄5年(1562年)6月19日 斎藤道三の国盗り物語

斎藤道三の国盗り物語が書かれている。それによると山州西岡の百姓であったが、美濃国に下り国主土岐氏の家臣長井十兵衛という者に仕える。そして後に長井の跡を押領し、土岐領を掠め取り、遂には土岐氏を追い出し、美濃国を押領したとする。その際、次の落首が詠まれたとする。
 『土岐はれと のりたてもなき 四の袴 美濃はとられて ひとの成けり』

 この落首とほぼ同じ内容の物が『醒睡笑』に見える。 また、道三についてはいわゆる国盗り1代説である。この物語は『美濃国諸旧記』に見える。
 ところで、この書物は寛永年間まで書かれているため、一般的には寛永年間末の成立とされている。またこの書物では、第2巻に『江州の屋形佐々木修理大夫義秀』と見えるように氏綱流正統説をとっている。『江源武鑑』と同系列なのである。
 しかし、実際に『美濃国諸旧記』が寛永年間末に佐々木氏郷によって成立したのだとすると、『江源武鑑』より遥かに先行することになる。通説の根拠たる『大系図評判遮中抄』では、『江源武鑑』が佐々木氏郷によって書かれ、それが世間に広まり諸書に引用されたとするが、その大前提が崩れることになる。
 また、通説の根拠たる『大系図評判遮中抄』には『美濃国諸旧記』の名は見えない。『美濃国諸旧記』が『江源武鑑』より後発だったとしても、佐々木氏郷が書いたのなら彼の事を監視していたかの如く詳述しているのに、これを見落とす理由がつかなくなる。
 逆に『美濃国諸旧記』が寛永年間末に佐々木氏郷ではない『誰か』によって成立しており、これを『江源武鑑』の作者が引用した、と仮定すれば、寛永年間の年次を持つ『明智家譜』等の存在との整合性が取れる。
 ところで国盗り物語には一次史料が存在する。『六角承禎書写』である。それによると、京都妙覚寺の僧侶であった道三の父が長井弥二郎に仕え、後に長井を称するようになった。道三の代に入ってから惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗ったとする。いわゆる2代説である。
 以上の事から、『江源武鑑』の作者は本記事に関しては、『六角承禎書写』の様な六角氏伝来の内部史料を有しておらず、先に成立していた『美濃国諸旧記』・『醒睡笑』から引用した可能性が高いと思われる。

    

永禄5年(1562年)8月15日 近江八景の和歌が詠まれる

屋形義秀と近衛殿及び三条殿が石山に来て、近衛殿が近江八景和歌を詠んだとする。
 

近江八景和歌の成立に関しては、従来の説は『江陽日記』なる書物を紹介した諸書により、

明応9年(1500年)8月13日に六角高頼の招待に応じ観音寺城にやってきた近衛政家により作られたとしていた。
しかし、観音寺城は近江中部に存在し近江の名所を詠んだはずなのに、歌の場所が近江南部に集中している事の説明がつかなかった。また、近江八景の名所絵は17世紀になってからしか現れない事の説明もつかなかった。さらに、当時の史料から当日のアリバイ(現場不在証明)が見つかり、この説は否定されることになった。
 その後、寛永元年(1624年)の奥書を持つ、儒者である管得庵の記録が発見されて決め手となった。これによれば、膳所城主である戸田氏鉄に儒学を講していた得庵が、近衛信尹が書いた『膳所金城之八景』掲載の和歌を書き写したとする。これにより近衛信尹作であることが判明した。 
これにより、近江南部にある膳所城から見た風景を詠んだ事が判明し、名所偏在の理由が明らかとなった。名所絵登場の時期の説明もつくことになった。 
その成立時期もその他の史料から、近衛信尹の死去(慶長19年・1614年)直前であることが判明した。
 ところで、この和歌はすぐには刊本などの形で広まる事はなかったようだ。鍛冶宏介氏が論文『近江八景詩歌の伝播と受容』にて詳しく調査されている。
 これによれば、承応2年(1653年)に後水尾天皇の命で飛鳥井雅章が編んだ類題歌集『数量歌集』に近江八景和歌が収録されている。この本は禁裏や公家のみならず、大名の蔵書にも写本を見出すことが出来るとする。 しかし、同氏は刊本は紹介されていない。恐らく存在しなかったか、存在したとしても極少数しかなかったであろう。
 これを踏まえた上での問題は、『江源武鑑』の作者がどうやって『近江八景和歌』を知ることが出来たか、ということである。『江源武鑑』が前書記載の通り元和7年(1621年)8月21日に成立したとすると、信尹死去直後であり、近衛一族から直接和歌を伝授されない限り、知り得ないだろう。
 通説通り明暦2年(1656年)成立説を採っても問題が残る。通説たる『大系図評判遮中抄』によれば、佐々木氏郷は飛鳥井雅章に仕えていたが、『数量和歌集』が編まれた承応2年(1653年)以前に追い出されたとしているのである。またその他の公家からも追い出されていたとしている。
 さらに同年(承応2年)には水戸家に仕えようとして偽系図が発覚し、逃亡・潜伏していたとする。これでは佐々木氏郷が『数量和歌集』を読む事は不可能である。
 仮に万が一、『江源武鑑』の作者が『数量和歌集』を見ることが出来たとしても、それを『江源武鑑』に反映させる事は困難を極める。後水尾天皇の命が下ってから『江源武鑑』成立までに4年弱しかないからだ。
 さらに、本件記事は『江源武鑑』第10巻に掲載されている。第10巻は永禄5年・6年・7年の3年分を収録している。また、記事の第1行目が1枚の木版の途中から書かれており、最後の行も同様である。このため、既に他の部分が完成していても、文字がずれる分木版を作り直す必要が有るのである。その上、各木版には巻毎の通し番号が彫られている。1枚でも追加したらその後ろの木版は、該当巻の分全て彫り直しである。
恐らく時間が無さすぎて間に合わないだろう
 従って本研究室では、『江源武鑑』の作者は『数量和歌集』及びその写本等に頼る事なく『近江八景和歌』を入手できたと推定する。また、和歌の作者を『近衛殿』と記事中で断定しているところから、近衛一族に何らかの関係があったものと推定したい。
 

永禄6年(1562年)3月23日 観音寺騒動

 佐々木六角承禎の息子義弼が後藤但馬守を殺害したとする。遂に承禎親子が逆心を起こしたとして屋形義秀が承禎の居城箕作城に攻めかかる。承禎親子は降伏し、息子義弼は京極の菩提寺である青龍寺に預けられる。また、承禎の家督は次男に渡ることになったとする。
 
 いわゆる『観音寺騒動』である。通説の旧来の教科書『近江蒲生郡志第9巻』では、殺害事件のあった日を10月1日としている。そして殺害があったため家臣たちが離反、観音寺城のそれぞれの邸宅に火を放ったとする。観音寺城の山上山下はもちろん、観音正寺及び城下町石寺までことごとく灰と化したとする。当時の史料『厳助往年記』でも、『江州観音寺滅却』としており観音寺城が滅亡した様子が記されている。
 しかしながら、発掘調査結果では真逆の結果となった。発掘調査を担当した田中政三『幻の観音寺城』では、伝本丸を含む主要4曲輪では、コメ粒ほどの火災痕も出土しなかったとしている。したがって、観音寺山(きぬがさ山)が全山炎上したとは考え難い。
 

永禄6年(1562年)9月20日 雪峯子が書いた図

 明国の雪峯子という人物がやってきて、足利将軍に天地日月星辰五行陰陽太極無極の図を献上したとする。両曜之図太虚元化之図晦朔弦望之図日蝕月蝕之図およびその説明がされている。
 
 両曜之図の中に月のウサギの絵がある。月のウサギについては、江源武鑑は『月の中に、ウサギとヒキガエルがいる』と述べている。
 この『木・ウサギ・ヒキガエル』のセットは、月の兎伝承がまだ中国にあった時代の形態をとっていると思われる。また、そのウサギの道具の形状も『月宮鑑』とよく似ている。
かなり古い文献を参考にしたのだろうか?

 また、晦朔弦望之図の解説として、『律暦誌』に曰くとして『日有晦朔月有』云々として記述している。この『律暦誌』とは漢書の『律暦志』の事であると考えられる。貞享元年(1684年)の『新編羣書類要事林廣記』第10巻でも『漢律暦志』として紹介されている。
 しかしその文章が、『新編羣書類要事林廣記』第1巻で引用している『漢律暦志』には、
『日有晦朔。月有弦望。逐月初一日爲朔。十五日爲望。自朔至望中一日爲上弦。自望至晦中一日爲下弦』
 としているのに対し、『江源武鑑』では
『日有晦朔、月有弦望,初一為朔、十五為望,朔望中一日為上弦,望晦中一日為下弦。日屬陽、月屬陰,陰常為陽消剝』
 としており一致しない。『江源武鑑』の文章は、『果老星宗』なる書物の『南方七宿』の中に見える文章と一致している。著者は中国の代表的な仙人である八仙の1人、『張果』という人物とされているようだが、中国の文献であるため、現在はここまでしかわかっていない。
 

永禄7年(1563年)8月2日 稲葉山城陥落

 織田信長が美濃の斎藤義龍の居城、稲葉山城を攻め落としたとする。これにより義龍は美濃国から追放され、伊勢国に下ったとする。
 
 いわゆる『稲葉山城の戦い』である。これによって信長の美濃支配か確立していくことになる。ところでこの戦いがいつ起こったのかについては、古くから『永禄7年説』と『永禄10年説』の2つがあった。
 江戸時代初期のいわゆる軍記物は殆どが『永禄7年説』であるとされている。小瀬甫庵『信長記』を見ると、永禄5年(1561年)に起こったとする軽海合戦のすぐ後に、『その頃』として稲葉山城の戦いを書いている。この事により『信長記』もまた『永禄7年説』であることが分かる。
 現在の通説では、信長の禁制が永禄10年以前の物が見当たらない事、天皇の御料地回復命令が同年付で出ている事、等を理由に『永禄10年説』をとっている。
 『江源武鑑』は『永禄7年説』をとっている。この事から本記事の情報源は当時の一次史料ではなく、江戸初期の軍記物であろう事が分かる。他の記事の多くが『信長記』の記述と一致する事から、本記事も『信長記』からの引用であろうと思われる。ただし『信長記』は『その頃』としか言っていないので、『豊鑑』等の軍記物も参照した可能性は大いにある。
 

永禄7年(1563年)12月29日 大易暦の編纂

 卯内の天陽大夫が今年初めて『大易暦』を編纂して屋形義秀に献上したとする。
 
 1年をある一定の固定された月数で表記し、しかも季節がずれない暦を『太陽暦』という。これは1年365を月数で割って、1ヵ月の日数とするのである。小数点以下の誤差については、『閏日』という余分な1日を、ある月に差し込む事によって調節する。
 現代のグレゴリウス暦は月数が12であるので、365日を12ヵ月で割る。すると30.46(以下略)日となる。このため、各月は30日若しくは31日で構成されているのである。
 戦国時代で使われていた太陰太陽暦とは、月の満ち欠けの周期は約29.5日であり、これに12ヵ月を掛けると354日となり、1年365日より約11日短い。この結果季節のずれが生じるため、数年に1回『閏月』という余分な月を差し込む事によって調整する。
このため、太陰太陽暦では12ヵ月の年と13ヵ月の年が発生する。
 『江源武鑑』では、第1巻から第10巻巻末までは、一切閏月が挿入されていない。この間は全て1年12ヵ月で記載されている。また、毎年1月に冬が来ている。
 これだけを見ると当該部分は『太陽暦』の様に見える。しかし、『太陽暦』かつ『12ヵ月』ならば存在するはずの、『31日』の記事が一切存在しないのである。
 笹川祥生氏は著書『戦国武将のこころ』にてこの点を指摘し、『江源武鑑』が偽書である証拠であり。作者が偽作していたために閏月を入れ忘れたのだと主張されている。
 なお次の第11巻からは『太陰太陽暦』にのっとっている。閏月の入れ方も正しい。