第13巻

 

永禄11年(1568年)2月19日 足利義昭の若狭下向と詩歌

 足利義昭が近江の矢島御所を出発して、若狭へ下向して行った。その道中にお共の細川藤孝が作った和歌と、義昭が作った詩が載せられている。それによれば、藤孝の和歌は、
『よるへなき身と成ぬれは塩ならぬ海の面にもうきめみる哉』であり、義昭の詩は、
『落魄江湖暗結愁 孤舟一夜思悠悠 天公亦慰吾生否 月白蘆華浅水秋』であったとする。

 これと全く同じ物が、小瀬甫庵『信長記第1巻 義昭公潜落南都給事』に登場する。従って『江源武鑑』の作者は、『信長記』を引用して本件記事を書いたと言っていいだろう。
 

永禄11年(1568年)9月19日 織田信長上洛戦

 足利将軍から六角承禎親子を撃破するように催促が来る。また承禎親子は三好一族と通じているとの報告が入る。このため屋形義秀が挙兵、承禎親子と和田山・箕作山にて合戦となる。最初に和田山城が陥落、次いで箕作城も陥落する。承禎親子は助命され日野の鎌掛(かいかけ)の城に押し込められたとする。
 これによって上洛の道が出来、信長及び将軍が合戦を行わずに進軍、観音寺城へ入ったとする。ここで六角軍3万5千と信長軍4万2千が合流を果たし、合計7万7千の大軍となって上洛したとする。

 本件記事は通説と全く異なっている。当時の史料はもちろん太田牛一『信長公記』はおろか、小瀬甫庵『信長記』でさえ、信長上洛に際し、信長軍が六角氏と交戦したとする。また、承禎親子が屋形であり観音寺城におり、箕作城には家臣が守備していたとする。
 また箕作城が1日で陥落した事により、屋形承禎親子が逃亡し、観音寺城に居た六角軍残党が降伏したとする。
 かように見ると『江源武鑑』における物語が、通説と大きくかけ離れていく原点がこの信長上洛戦であると言える。屋形義秀と六角軍を健在としたことにより、以降の物語は屋形義秀率いる六角軍と、信長率いる織田軍との天下取り物語になっていくのである。
 従って、『江源武鑑』を2つに区切るとすれば、本件記事をもって前編と後編に分けられると言ってよかろう。
 また本件記事についても、信長が上洛したという事実自体は、『信長記』から知ることが出来ただろう。しかし、本件記事までは『信長記』をそのままコピーして事足りていたのだが、以降は『江源武鑑』の作者が自力で物語を考えなくてはならなくなるのである。
 近世軍記物語の成立の上で1つのヒントとなるのが、『コピペ本』の乱造問題である。梶原正昭氏が『室町・戦国軍記の展望』で述べられているように、『『北条記』のごときは『永享記』の全文をそっくりそのまま切り取って著述の冒頭に据えており、その他のものも『永享記』の一部を利用して別種の書に仕立てあげているといった有様』なのである。
 戦国期をテーマにした軍記の中に、どの程度『コピペ本』が混ざっているのかは不明ではある。しかし、通説の根拠たる『大系図評判遮中抄』の中で、佐々木氏郷の著作だとされている『足利治乱記』が、梶原氏によって、『創作的意欲を欠いたいかにも便宜的な方法』である『コピペ本』のリストにあげられている点には注目できる。
 この事は氏郷の死亡した元禄期頃までには、『コピペ本』が蔓延していた事を示している。本件記事までは先行の文献の内容に沿って物語を進め、あるいはコピペをしていた『江源武鑑』の作者が、ここに至って大きく逸脱していくという事は、ここから先が作者の『主張』かもしれない。
 『六角義堯』なる人物の一次史料への登場と合わせて、注意を払っていきたい。備忘録としてここに記す。
 

永禄11年(1568年)11月29日 武田信玄が今川氏真を追放

 武田信玄が駿河国に攻め込み今川氏真と合戦、これに勝利する。氏真は逃走する。この時に駿河国で次の様な落書が立つとする。それは以下の様なものであったとする。
『甲斐もなく 大僧正の官賊か よくにするかの をいたをすみよ』

 この合戦はいわゆる『駿河侵攻』である。ところで、本件記事の落書と同じものが、『北条五代記 第6巻』に見える。この事から『江源武鑑』の作者は、『北条五代記』を読んでいたものと思われる。