第14巻

 

永禄12年(1569年)4月21日 二条新御所造営と落首。

 足利義昭のために二条新御所を建築したが、時間が無かったので古寺などから手当たり次第に石を持ってきた。このため、次のような落首が立ったという。
『なきあとの しるしの石を 取集め はかなく見へし 御所のてい哉 』

 これと全く同じ狂歌が、『新撰狂歌集』に見える。同書は成立年不明ながらも寛永10年(1633年)頃の成立と見られている。
 この為『江源武鑑』の作者は、『新撰狂歌集』を読んでいたものと思われる。また、先行する文献については、発行から年月を経ないうちに取得することが出来る人物であったと思われる。
 

永禄12年(1569年)6月28日 武田信玄の敗戦と落首。

 武田信玄と北条氏康が合戦に及び、信玄が大敗したとする。その時次のような落首がたったとする。
『名をかへよ 武田かほする 八幡の はたうちすてて にけた信玄』

 この落首は『北条五代記』第6巻に同じ物が見える。この事から『江源武鑑』の作者は『北条五代記』を読んでいたものと思われる。
 

永禄12年(1569年)11月7日 翁問答の献上。

  三上大学助秀氏が翁問答鬼神論という書物を作り屋形義秀に献上する。この三上は知恵のある人なので、俗に近江文殊と呼ばれるほどであるとする。
 
 明暦2年版『江源武鑑』が刊行される直前に、『翁問答』という書物を書いた人物が居た。この人物の名を『中江藤樹』という。著名な陽明学派の人である。
 井上哲次郎氏『陽明学派』の『中巻』によれば、寛永17年(1640年)に藤樹が書いたのだが、門弟が原稿を盗み出し勝手に出版してしまったという。
 『翁問答』という題名はわずか3文字であり、たまたま『江源武鑑』に記載の『翁問答』なる文言と一致したという可能性も、勿論ある。しかし中江藤樹が『翁問答』という書物を書いていた事を、『江源武鑑』の作者が知っていた可能性もある。