第2章 源内の父『沢田武兵衛の引っ越し伝説』の検証

 

 第1節 通説の概要

 「大系図評判遮中抄」によれば、源内の父である沢田喜右衛門は滋賀県雄琴で僅かの土地を耕す貧農だった。しかし、正保4年(1647年)に忍藩に対し領地加増がなされ、たまたま近江の土地を賜った。
 そこで喜右衛門は、近江における忍藩の代官に仕え沢田武兵衛と名を改めた。その後源内の悪事を叱責したりして、後に忍藩に引っ越した。これをいい事に、源内は承応2年(1653年)に偽系図を使って水戸家に仕官しようとするが、失敗して近江に逃げるのである。
 この事から沢田武兵衛が忍藩に引っ越したのは、正保4年(1647年)から承応2年(1653年)の間とされている事が分かる。

 

 第2節 忍藩の沢田武兵衛と忍藩の領地加増

 次に沢田武兵衛が忍藩に引っ越した、再下限の年を見てみよう。それを示すのが次の史料である。

埼玉県立文書館所蔵
「永福寺御朱印頂戴願書」
文書群番号 目録-014‐02
文書番号   久保家1875

 この史料は、佐谷田村(埼玉県熊谷市)にある永福寺が、忍藩主である阿部忠秋に御朱印を頂戴するために提出した文書である。

 

 この文書にある通り「阿部豊後守様御内 沢田武兵衛殿」となっており、その他2名とともに、沢田武兵衛が取次を行なっている事がわかる。また、その日付は、慶安2年(1649年)となっている。この事から、正保4年(1647年)忍藩への1万石加増から2年後には、沢田武兵衛が忍藩内において、永福寺と阿部忠秋との取次を行なっていた事が分かる。
 ところが、忍藩に沢田武兵衛が居たのはもっと早くからだった事が分かるのである。

 

 第3節 忍藩年貢割付状
 
 埼玉県行田市郷土博物館のご協力により、次の史料をご紹介頂いたのでご覧頂きたい。

埼玉県行田市郷土博物館所蔵
「忍藩年貢割付状」

 この史料を見ると、寛永16年(1639年)割付状の段階で、既に沢田武兵衛の名が見えている。この後も万治元年(1658年)まで20年連続で見える。この事は、忍藩への加増時である正保4年(1647年)より8年も前から沢田武兵衛は忍藩にいた事を示す。
 また、忍藩は寛永16年に5万石となり忍の地を拝領した。このために、近江に同名の人物が居たとしても、同年の11月までに、
近江の代官に仕える→出世→忍へ引っ越し→県令に就任→割付状に署名・押印などという事は有り得ない。
 従って、割付状に見える沢田武兵衛なる人物は、忍藩に加増がされた段階の現地住人だったと考えるのが妥当である。

(埼玉県行田市郷土博物館所蔵 『忍藩年貢割付状』)


 この状況に至っても、なお「大系図評判遮中抄」に固執される方もおられよう。そこで『阿部忠秋の家臣に、沢田武兵衛という名の人物が複数人いた』という仮説を設定してみるが、この仮説はすぐに崩れるのである。
 もう一度『永福寺朱印頂戴願書』を見直して頂きたい。「阿部豊後守様御内 沢田武兵衛殿」とあり、阿部忠秋の家臣に『沢田武兵衛』は1人しか居ない事が大前提となっているため、この仮説は成り立たないのだ。
 次に、茂木和平氏の『埼玉名字辞典』を見てみよう。本書は古代苗字発祥から中世武蔵武士、近世農民の苗字をすべて記載しているとされる。また、埼玉県内の1900余の村々を訪れ、寺院、神社等の碑文に記された苗字を書き写し、寄進帳や過去帳及び古文書を調査され、本書第一卷で苗字数8600余を収録されている。更に、旧家については県内全村の正副戸長(旧名主組頭)を始め、由緒等を詳細に調査された、その集大成といえる書物である。
 それでも『沢田』の項目に「七 忍藩阿部氏家臣 佐谷田村永福寺慶安二年文書に「阿部豊後守様御内・沢田武兵衛殿」と。」とあるだけである。
 したがって、「永福寺朱印頂戴願書」と「年貢割付状」の「沢田武兵衛」が同一人物であり、他には沢田武兵衛なる人物はいなかったと理解する以外にはあり得ないのである。
 よって『近江の沢田武兵衛』なる人物が忍藩に引っ越して、阿部忠秋の家臣として働いた事はないと断言できる。


  第4節 消えた沢田権之丞と「阿部忠秋家中分限帳」

 さて、近江から忍に引っ越し忍藩に仕えた沢田武兵衛なる人物が架空であったらならば、その子息たる沢田権之丞も当然架空の人物となる筈である。その事を直接に阿部忠秋の家臣団名簿から見てみよう。それが次の史料である。

埼玉県県民部県史編さん室
「埼玉県史調査報告書 分限帳集成」140頁所収
「阿部忠秋家中分限帳」

 さっそくこの史料によって、役職と氏名を確認していこう。なお、「新編 埼玉県史」通史編3近世1の320頁によると、表紙に「忠秋様御代 慶安年中分限帳写」とあるが、その内容から見て「忠秋晩年の寛文期の家臣団構成に近いものと推定される」とされる。また、役職と氏名のみを引用し石高に関しては最小限度の引用に留め、一覧形式にした。

上記一覧の内、赤字の人物に注目して頂きたい。

「用人:酒井又右衛門(650石)」
「馬廻:三雲藤左衛門(100石)」

である。前述した「永福寺御朱印頂戴願書」で、永福寺からの宛先には次の様に書いてある。

「酒井又右衛門殿
 沢田 武兵衛殿
 三雲藤右衛門殿」

 酒井は650石であり、城代ですら2千石であるため極めて高い地位にあった事が分かる。また、「用人」という立場であった事から、永福寺の願書の取次ぎは実質的に酒井が行っていた事が分かる。また、これ程高い地位の人間が徒歩で来ることは稀であろう。馬廻である三雲の連れてきた馬に乗っていたと思われる。また、三雲は「藤右衛門」から「藤左衛門」になっている。子息が継いでいた可能性が高い。
 真ん中に位置する沢田武兵衛は、庶務の処理係であったのであろう。事実、同名の人物が「年貢割付状」にて年貢割付という事務処理を行っていた事が分かる。
 ところで、沢田武兵衛は万治元年(1658年)をもって19年間勤めていた年貢割付の記録から消える。勤続年数から見て引退したのであろう。家臣団名簿には沢田氏(澤田氏)が見えない。
 すなわち寛文期には、有力家臣として居た筈の沢田権之丞が居なかったばかりか、沢田氏そのものが居なかったのである。また、通説では沢田権之丞が父の県令の地位を継いだとするが、家臣団名簿を見るとそれが誤りである事が分かる。元々忍藩には県令やそれに類する役職など無かったのである。
 以上、近江の沢田武兵衛やその家族の話は、「大系図評判遮中抄」による捏造だったと見て、まず間違いなかろう。