第3章 正保4年近江加増伝説の検証

  
  第1節 通説による忍藩への『近江加増伝説』の内容

 ところで通説によると、忍藩(城主は阿部忠秋)に対し正保4年(1647年)に加増がなされ、近江の土地を賜ったとする。
 その根拠については『大系図評判遮中抄』の、『武州忍ノ城主阿部豊後守忠秋ニ正保四年ノ比カトヨ加恩ノ地ヲ江州ニ賜リ』という文言をそのまま引用しているだけである。管見の限り、特に補強証拠を提示されているのを見た事は無い。
 

 
  第2節 武蔵田園簿と徳川家綱領地判物

 では、沢田武兵衛なる人物が忍藩へ引っ越し、それにより『沢田源内』なる人物が自由の身になり、更なる悪行へ走ったとされる、その根本たる忍藩への加増について、当時の史料を基に検証を行っていこう。
 忍藩が正保4年(1647年)に1万石加増されて、6万石になった事について、埼玉県行田市郷土博物館に調査のご協力を頂いた。この結果、慶安2年(1649年)頃作成の『武蔵田園簿』によって、武蔵国内に5万6200石が存在した事が判明した。



 次に、残り3800石分についてであるが、これについても一次史料が存在したのである。それが寛文4年(1664年)に将軍である徳川家綱から直接発給された『徳川家綱領地判物』である。
 同文書に、上野国新田郡として3800石が記載されているのが見て取れる。

 以上、武蔵国5万6200石と上野国新田郡3800石を足すと、ちょうど6万石となる。元々近江国に領地など持っていなかった事が分かる。
 また、領地判物では武蔵国6郡・相模国1郡・上野国1郡で8万石を与えている。幕府が忍藩に対し、郡単位で領地を与えていた事が分かる。近江国の志賀郡に属している雄琴村だけが飛び出して忍藩に所属する事など、元からあり得ない事だったのだ。


  第3節 新田庄瀬田郡上田中村地頭書上

 ところで、上記『武蔵田園簿』の成立は正保4年忍藩加増からわずか2年後であり、このわずかの間に、沢田武兵衛が仕官し、出世し、忍へ引っ越し、かつ領地替えが行われたとは到底考えられない。加増からそのままだったと考えるべきである。
 しかし『徳川家綱領地判物』の成立は寛文4年(1664年)であり、忍藩加増から14年の歳月が過ぎている。この間も本当に忍藩が上野国新田郡内に領地を持っていたのであろうか?
 この点について、太田市教育委員会文化財課に史料照会を依頼してみた。この結果、実際に持っていた事を証明する一次史料が存在したのである。それが次の史料である。

新田町企画調整課
「新田町誌」
第1巻通史編 1053頁所収
「新田庄瀬田郡上田中村地頭書上」

 なお、同教育委員会によると、「瀬田郡」上田中村とあるが、一時期上田中村は新田郡ではなく瀬田郡に属していた。そのため、この文書では「瀬田郡」上田中村と記されていると思われる、との事である。
 また、福島睦夫氏所蔵の原本は、今回発見する事が出来なかった。この為、旧綿打公民館所蔵の写本である、「新田庄瀬田郡の内上田中村長慶寺御朱印頂載の事」を掲載させて頂いた。

 いかがだろうか? 忍藩が正保4年(1647年)の翌年である慶安元年には、もう新田郡内で領地を持っていた事がわかる。史実の忍藩6万石の実態は、武蔵国内で5万6200石、上野国新田郡内で3800石だったというのが、改めてお分かり頂けたかと思う。
 以上、忍藩が正保4年に近江の土地を賜ったとする、『近江加増伝説』は虚説であったと断定できる。