第4章 幼少期悪行伝説の検証

 第1節 通説による源内と父親の力関係

 ここで、今一度通説たる「大系評判遮中抄」での、氏郷(沢田源内)の幼少期の言動と父親との関係を振り返ってみよう。
 通説では、氏郷(沢田源内)が奉公先にて盗みを働き追放され、その後「尊覚」と名を変えて山伏の姿となったが、父親に叱責され復俗している。また、六角定頼の長子に六角義実が居たとする系図や書物を刊行したが、やはり父親に叱責されている。その後に至っては、父親によって和田家に監禁されている。
 特に、氏郷(沢田源内)が父親によって監禁されているという事は、氏郷(沢田源内)と父親との力関係において、圧倒的に父親の方が上位であった事を示している。
 こうして見てみると、父親がいる限り、氏郷(沢田源内)は自由に悪行を働くことは出来ないのである。父親が忍藩に引っ越したからこそ、後の悪行伝説が成立し得るのであり、父親の引っ越しは、物語を成り立たせるために必須の条件だったのである。
 その様子は「大系図評判遮中抄」の記述自体にも見られる。「正保四年ノ頃カトヨ」とあるが、「カトヨ」とは、現代語で言う「だったかなあ」という意味であり、建部賢明がはっきりとした史料を見ながら書いたのではない事が分かる。物語を成り立たせるために必要であったので、忍藩の領地加増の時期さえ曖昧なまま、無理矢理挿入したのであろう。

 しかし、父親の忍藩への引っ越しという可能性は、前述したように否定された。すると氏郷(沢田源内)が「江源武鑑」刊行する事は無かったはずである。しかし実際には刊行されている。逆に六角定頼の長子が六角義実とする書物が刊行されている筈なのだが、管見の限り、一冊たりとて発見されてはいない。
 この矛盾をどのように理解すればいいのだろうか? 実はこの矛盾を解決し得る史料が、既に発見されていたのである。それが次節で述べる、佐々木氏郷直筆「公事根元抄」である。

 

  第2節 佐々木氏郷直筆 「公事根元抄」

 本史料は古筆学の大家である小松茂美氏が発見、同氏の所蔵となった。氏の没後は慶應義塾大学附属研究所斯道文庫に寄贈された。氏のご子息である小松美彦氏、並びにご子弟の多大なるご協力により寄贈先の発見に至ったものである。改めてお礼申し上げる。

慶應義塾大学附属研究所斯道文庫所蔵
「公事根元抄」
請求記号:セ216/158

(慶應義塾大学附属研究所斯道文庫所蔵 「公事根元抄」)


 この通り、「沢田源内」と同一人物であると信じられていた佐々木氏郷は、実は寛永17年(1640年)には「佐々貴廿七世管領氏郷」と名乗っていたのである。実に忍藩が正保4年(1647年)に1万石加増される、7年も前の事である。
 また当研究所の調査によって、本書には類本が存在する事が判明している。それが京都歴史学・歴彩館所蔵本である。さっそく両書を見比べてみよう。

京都歴史学・歴彩館所蔵
「公事根元抄」
請求記号 貴336

(左:氏郷直筆本 右:歴彩館所蔵本

  いかがだろうか? 亜相兼賢とは広橋兼賢の事なので、単に言い換えているだけである。これ以外には、「速水良益」という人物が「浅井郷政」に代わっているのが分かる。しかしこれ以外はほぼ同文であり、これ程極似した文章は偶然には生まれ得ない。一方がもう一方を書写した可能性が高いだろう。
 広橋兼賢は文禄4年(1595年)生まれで、 寛文9年(1669年)とされている。このため、両「公事根元抄」が文禄4年以前に成立する事は有り得ない。奥書通り寛永17年(1640年)以後の成立と見て間違いなかろう。また管見の限り、かような奥書を持つ同書が刊行された形跡は見られない。
 となると、氏郷と職忠の間には交流があった可能性を考慮するべきである。奉公しては叩き出されたとする、通説の説明が誤っている可能性が極めて高い。
 さらに、通説の根拠たる、「大系図評判遮中抄」の作者・建部賢明が、「氏郷」の名乗りの時期を正確に知る事が出来ていなかった事が明白となった。
 以上の理由により、通説たる「大系図評判遮中抄」の主張する、幼少期の氏郷の経歴は全て誤りであると断定したい。