第5章 士官活動失敗伝説の検証

   第1節 通説の概略

 通説たる『大系図評判遮中抄』では、その後の沢田源内の様子が書かれているので概略を見てみよう。
 それによれば、承応2年(1653年)の頃に源内は江戸へとやってきた。そこで自らを『佐々木正統近江右衛門義綱』と名乗り、偽系図を使って中山正信を通して水戸家へ仕官しようとした。ところが正信が東叡山(現在の東京上野の寛永寺)宿坊吉祥院の沙門某を通して、真の佐々木六角氏正統である佐々木義忠に問い合わせた。
 この為たちまち偽物であることが露見、更に義忠が源内を罰するように上訴した。この事を聞いた源内は大慌てで近江に逃げ帰り、『六角兵部氏郷』と名を改め、しばらく世間の様子を見たとする。
 また、ここで分かるように『大系図評判遮中抄』では、『沢田源内』と『佐々木氏郷』とが同一人物であるとする。

 

  第2節 『士官活動失敗伝説』それ自体の矛盾

 この『士官活動失敗伝説』を当時の史料と比較する前に、この話自体が抱える矛盾について述べておきたい。
 源内は最初に『佐々木正統』である『近江右衛門義綱』であると名乗ったとする。しかし『真の佐々木正統』である『佐々木義忠』に見破られ、更に幕府に源内逮捕の依頼を出されたので、近江に逃げ帰ったとする。近江に逃げ帰った源内は『六角兵部氏郷』と名を変え、しばらく世間の様子を窺ったとする。
 ここで気を付けたいのは、源内が『近江右衛門義綱』という名前を名乗ったから『佐々木義忠』に糾弾されたのではないという事だ。源内が『佐々木六角氏正統後継者』であると主張したからである。したがって、源内がどこに居ようとも、源内が『佐々木六角氏正統後継者』を名乗っている限り、逮捕される危険性があるのである。
 源内が身の安全を図り世間の様子を窺うには、まずは『佐々木六角氏とは何の関係もない人物』に成りすまさなければならない。逃げ帰った直後に『六角兵部氏郷』と名乗っては、明らかに自己を『佐々木六角氏正統後継者』と主張している事になるので、矛盾するのである。
 したがって、本来この話は源内が『佐々木正統の六角兵部氏郷』と名乗って士官活動をし、義忠に見破られ近江に逃亡してから、『佐々木六角氏とは何の関係もない近江右衛門義綱』と名乗り別人になりすまし、安全を確保してから『佐々木六角氏正統後継者の『六角中務氏郷』と名乗り始めた、とならなければならないのである。
 かように検証を始める前から虚説オーラが漂っているのであるが、次節以降にて当時の史料と共に検証を行っていこう。

 

  第3説 京都清水寺と六角兵部殿

 この時期に京都の清水寺執行である田中宗親が、「六角兵部殿」に対して、自身の父の事績を書いた書物を渡した記録が残されているので見てみよう。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「新庄古老覚書」
請求記号 354‐137

 同書の331ページ以下に所収されている2つの文書を見てみよう。同書の解説では、1つは承応3年(1654年)7月付のもので、父田中清六の事績を述べたものである。もう1つは、先の物と同趣向にて更に詳細を述べるもので、年月日不詳ながらも同年頃の作と考えられるとされる。

(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 『新庄古老覚書』)

  この2つ目の史料には、『如此書にて六角兵部殿へ遣り申候』とあり、宗親から六角兵部殿へ書類が渡された事が分かる。またこの後、清六の子孫岡村甲斐が、新庄藩主戸澤家にこれらの書類を提出した際、問い合わせがあった。続けて見ていこう。

 岡村甲斐が、『六角兵部と申は兵部大輔殿と相認候書記も相見え候へ共如何なる御人に候し哉難相分候』と述べている。この事で、六角兵部の別名が、六角兵部大輔であったことがわかる。
 また後述するが、この時期に『佐々木氏郷』は京都に程近い、近江の志賀郡に住んでいた事が、当時の記録に残っている。
 六角兵部殿が、氏郷と同じく京都もしくはその近郊に住んでいたことが推定され、氏郷と同じく『六角兵部』並びに『六角兵部大輔』と他称されていた。『六角兵部殿』が、氏郷本人であると断定して間違いあるまい。またこの史料によって、氏郷が京都清水寺と交流を持っていたことが分かる。

 

  第4節 『士官活動失敗伝説』と『田中宗親書状』の関係

 通説たる「大系図評判遮中抄」では、承応2年の頃に氏郷(源内)が「近江右衛門義綱」と名乗り江戸に来たとする。そして士官活動をしようとするが佐々木義忠に見破られ、近江に逃げ帰ったとする。その後しばらく潜伏し、その後「江源武鑑」を出版したとする。
 しかしこれは田中宗親書上が存在する以上、かなり無理があるように感じられる。無論、絶対に不可能という訳ではないが、仮に氏郷(源内)が承応2年元日に近江を出発したとして、江戸到着が1月下旬である。士官活動を驚異的な速さで行ったとして、2週間。2月初頭に水戸頼房に士官を依頼し、それが露見して慌てて江戸を出発するまでに、2週間。近江到着まで2週間として、すでに3月初頭である。ここから更に世間の様子を窺うのに4か月。この時点で承応2年7月である。
 承応3年6月下旬頃には、京都清水寺の宗親に田中清六の事績を調べてもらうよう依頼をしなければ、7月に宗親が返事をすることは不可能だろう。スケジュール的に相当無理があるのがわかる。


 第5節 士官失敗伝説と「江源武鑑」の底本
 ここで「江源武鑑」第17巻の巻末の刊記を見てみよう。

国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵
「江源武鑑」
請求番号 169-0088

 
 
 この様に、「江源武鑑」出版年月は明らかになっており、明暦2年(1656年)11月に刊行されている。
 通説たる「大系図評判遮中抄」では、近江に逃げ帰った源内(氏郷)が、江戸から遠く離れさして咎める人も居ないので、再び野心が芽生え、「江源武鑑」の出版に走ったとする。では、仮に上記の通り、承応2年(1654年)7月まで近江に潜伏していたとして、その後に、「江源武鑑」出版の野心が芽生え、原稿の執筆を始めたとしよう。では、残りの期間で同書18巻20冊の原稿を書けたのであろうか? 答えは否である
 まず立ちはだかるのが、その底本の多さと難解さである。ここで、確実に底本が判明する主な記事を一覧にしてみた。無論、この他にも底本と思しき物は多数存在する。
 いかがだろうか? 大量の資料を「江源武鑑」の作者が読んでいた事が分かる。「江源武鑑」の記事は妄想だけで書ける代物ではないのだ。特に記紀に関しては、万葉仮名で書かれていた可能性が高く、学習時間がとても足りない。
 通説たる「大系図評判遮中抄」に固執される方には、源内(氏郷)は頭が良いから、どうせ直ぐに読破して理解したに決まっている、と決めつけてこの問題を棚上げされる方もおられよう。ところが、単に底本の気に入った記述を順番に「江源武鑑」に放り込んでいた訳ではない事が解るのである。
 底本である「太平記」に着目してみよう。「江源武鑑」の第3巻で「太平記」第27巻の記事が登場している。ところが第6巻では「太平記」第18巻の記事が登場している。第5巻では、「太平記」の記事が第38巻・第37巻・第39巻の順で登場している。一旦第38巻の記事を利用したが、執筆中に第37巻の記事を思い出して利用し、その直後に第39巻に手を伸ばしている事がわかる。
 これらをその度に貸本屋に借りに走っていては、煩雑に過ぎるだろう。「江源武鑑」の作者は、一旦ある程度底本を手元に集めてから執筆に取り掛かったものと思われる。
 だが、底本を用意し理解しただけでは、猛然と原稿を執筆する事などできない事が判明する。登場人物が整理されていたのである。

 いかがだろうか? 記事を書くたびに適当に人名を創作していては、決してこうはならない。これを実現するには、創作する毎に別本に人名を控えておくか、最初から別に存在した人名帳を利用して書いたかのどちらかしかない。
 無論、通説たる「大系図評判遮中抄」に固執される方は、人名帳を利用して素早く書いた、とでも主張されることだろう。当研究室としても、前者は煩雑に過ぎ現実的ではなく、後者であったと推定したい。すると「江源武鑑」の執筆手順は、以下の4段階を経て行われたと推定できる。

 ①底本の収集
 ②底本の学習
 ③人名帳の作成
 ④「江源武鑑」の執筆

 このように通説たる「大系図評判遮中抄」に従うと、「江源武鑑」の執筆は、期間が3年半程しかない割に、底本の収集・読破・理解と、執筆中の人名整理に追われるため、極めて多忙な執筆作業とならざるを得ない。ここで最後の関門が立ちはだかる。
 前述の通り、氏郷が京都清水寺の宗親に、田中清六の事績を調べてもらうよう依頼をしており、時間を浪費している。そして決定的な目撃証言がある。氏郷が10日程も初詣のために浪費しているのだ。後述するが、氏郷は明暦2年に石清水八幡宮に初詣に行き、そのついでに招提村の4代目川端半兵衛正綱の居宅に、4~5日も逗留していたのである。近江から片道で1泊2日とすると、約10日浪費している。

 枚方市史編纂室所蔵
 「招提寺内興起後聞記併年寄分并年寄分由緒実録」

 

 いかがだろうか? 氏郷が忙しそうにしている様子が全く見えない。「大系図評判遮中抄」にいう、士官活動失敗伝説が虚説であったことがお分かり頂ける事と思う。

 

  第5説 『近江右衛門義綱』の墓

 ところで、東京都荒川区に『観音寺』というお寺がある。荒川区史編纂の際、この寺で興味深い墓が発見された。その墓には次のように刻まれていた。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
『荒川区史』
請求記号 721‐16

(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 『荒川区史』)

 この墓は、刻文によれば寛政11年(1799年)建立なので二次史料である。よって史料価値は殆ど無いと言ってもよい。しかし仮に、氏郷は近江や京都に居続け、氏郷とは別人の『六角近江源義綱』なる人物が江戸に居たならば、どうだろう?
 この場合には氏郷の事績を、スケジュール的に無理なく説明できる。又、『人鏡論』で述べている氏郷の自称、『佐々貴管領氏郷朝臣』を使っていない点、並びに自身を27世ではなく26世としている点にも、合理的に説明がつく。