第6章 江源武鑑出版伝説の検討


 第1節 荒木利兵衛

 前述の通り、「江源武鑑」は明暦2年(1656年)11月に、荒木利兵衛から刊行されている。この荒木利兵衛が何者であったのか、現在分かっている情報を整理しておきたい。まず、国立国会図書館サーチ等により判明した荒木利兵衛による出版物とその出版年月日の刊記について表にしてみた
書籍名巻数出版年
刊行年因帰筭哥 2巻寛永17年(1640年)
我自刊我書 慶安 2年(1649年)
太平記40巻慶安 3年(1650年)
かた言5巻同上
後出阿彌陀佛偈經蠡測 承応 2年(1653年)
彙輯薛氏内科醫案 7巻同上
武者物語 3巻明暦 2年(1656年)
鐔津文集 19巻同上
江源武鑑 18巻同上
三将軍解 8巻同上
太上老子道經述註 5卷同上
朱子書節要 20巻同上
醫方大成論 明暦 4年(1658年)
新添脩治纂要 8巻万治元年(同上)
十帖源氏 10巻同上
古老軍物語 6巻万治 4年(1661年)
萬病回春  8卷寛文 2年(1662年)
夢窓國師法語 寛文 4年(1664年)
浄土文類聚鈔直解 10巻寛文 8年(1668年)
 
 以上の様に『荒木利兵衛』は、『江源武鑑』刊行の15年以上前から出版を行っている。また『江源武鑑』刊行と同じ年には他に5冊も発行している。
 弘文堂出版の『縮刷 江源武鑑』では400頁以上に渡って印刷されており、1ページに原本の版木2枚分が印刷されている。合計で版木800枚以上である。
 これを2年で彫り上げたとしても、1日に1枚以上を彫らねばならない。しかし『荒木利兵衛』はこれだけに止まらず、他にも本を出版しているのである。大規模な設備を備え、多数の彫師が働いていたであろう事が推定される。この事から『荒木利兵衛』は老舗かつ大規模な書林、すなわち出版社であったことが分かる。
 通説たる『大系図評判遮中抄』では、『阿党数輩ヲ集メ、寺僧神人等ヲ語ラヒテ(中略)江源武鑑ト名ケテ刊行ス』とあるが、これが事実だとしても、彼らが関与したのは原稿作成及び出版の依頼までであったと推定したい。



  第2節 『江源武鑑』初刊年再考

 ここで、近代に出版された『国書総目録』を見てみよう。この書物は、各書物の形態や所蔵先の情報をまとめた物である。そこで『江源武鑑』の項目を見ると、次の様に記載されている。

岩波書店刊行
『国書総目録』
1989年

(岩波書店刊行 『国書総目録』)

 以上となるのだが、実はこの記載には誤りが散見される。特に『刊行年不明 版本』については誤りが激しい。実物調査の結果、『国会本』・『静嘉本』・『宮城青柳本』については、実は明暦2年版である事が確実になった。
 まず、『国会本』であるが、『国立国会図書館オンライン』の検索結果を見てみよう。

(『国立国会図書館オンライン』での検索結果)

 ご覧の通り、冊数と『刊年不明』の文言が『国書総目録』と一致している。また、実際に第17巻巻末を複写申請した所、間違いなく明暦2年の刊記があった。おそらく『国書総目録』の作者が、この『刊年不明』の文言をそのまま採用したものと思われる。

 次に『宮城青柳文庫本』についてであるが、現在の所蔵先である宮城県図書館の資料奉仕部資料情報班みやぎ資料室から、以下の旨の回答を頂いた。

①江源武鑑 18卷 刊本 明暦2 荒木利兵衞 28cm 20冊 
(『青柳文庫和漢書目録』61,【A210/コ2】)
②第19冊が「巻第十七」であり、上記画像と同様の刊記有り。
 以上の通りである。従って『宮城青柳文庫本』についても、『国書総目録』の作者が『江源武鑑』第17巻の刊記を見落とした事が確実なものとなった。

 同様に、静嘉堂文庫の成澤麻子氏に、同文庫の『江源武鑑』について現物を調査して頂いた結果、第17巻が存在し『明暦弐年霜月吉日/ 開板』との刊記があるとのご返事を頂いた。ここでも『国書総目録』の作者が刊記を見落としていたのである。


  第3節 『江源武鑑・零本』と『佐々木日記』と『江源武鑑』

 次に『国書総目録』に言う、東京大学本『元和7年(1621年)―寛永4年(1627年) 写本』について調査を行った。この結果、同書は『江源武鑑・零本』と名の付く別の本である事が、現物の調査で判明した。同書は和歌山大学所蔵の『佐々木日記』の第8巻と同一の書物であった。
 この『佐々木日記』は本能寺の変から『佐々木氏郷』の前半生である寛文3年(1663年)までを記録したものである。『江源武鑑・零本』は元和7年(1621年)から寛永4年(1627年)までを記す。
 両書は、『江源武鑑』と記述年代が一部重複するが、その記述文言も同一ではない。従って両書と『江源武鑑』は別の本であると断定できる。3書を比較してみよう。

 

 いかがだろうか? 『江源武鑑・零本』が明暦2年版『江源武鑑』とが明らかに異なる書物である事がお分かり頂けると思う。


  第4節 『元和7年版 彰考館本』と『江源武鑑』の『前書』

 最後に「国書総目録」の言う「元和7年版 彰考館本」についてであるが、これについても既に疑義が提示されており、磯部佳宗氏が言及されている。

 

中京大学文学会編
『中京国文学』
第28巻 19頁

 氏は、彰考館本を実見していないと断りを入れながら、同書には刊記が認められないため、「国書総目録」の作者が「江源武鑑」の「前書」に記載の、5家の日記を一致し元和7年8月22日に改めて江源武鑑と号す、とする文言を採用したのではないか、とされている。当研究室でも実見を行い得ていないため、引き続き調査を行う事とする。
 以上の通り、異説の「江源武鑑」が明暦2年以前に刊行されたとする主張には根拠が無く、通説通り明暦2年版「江源武鑑」こそが初版本であろう。
 その上で「江源武鑑・零本」こと「佐々木日記」の別本が、寛永4年(1627年)に成立した可能性がある事を指摘しておきたい。「江源武鑑」に底本があった可能性があるのである。




  第2節 明暦3年の京都所司代御触書

 『江源武鑑』出版からわずか4か月後に、軍書の出版に関する統制のための御触書が京都所司代から出された。この御触書が藤實久美子氏『近世書籍文化論』に、その背景と共に紹介されているので引用してみよう。


 以上に見えるように、このお触れが出た以降は、軍書を出版するにあたり、奉行所へその出所を届け出ねばならなくなった。
 また、一見『江源武鑑』出版を受けて出したお触れに見えるが、単にそれだけではないようだ。『近世書籍文化論』によると、当時に数多く出された軍書が『「敗者の記録」であり、支配層を批判するために政道・道徳を論じるという特徴を有した。この動きに対して幕府は届出を強制したのである』という。
 『江源武鑑』も第8巻の『百箇条』において、政治の在り方を論じている。このお触れが出るわずか4か月前に出版された、同書の作者について京都所司代等が放置しておくとは考えにくい。『荒木利兵衛』から作者について直接聞き取りをした史料が残っている可能性がある。
 また、『大系図評判遮中抄』において沢田源内が著作したと主張される、『足利治乱記、浅井日記、異本関原軍記、異本勢州軍記』についても、記録が残っている可能性がある。



 第6節 「江源武鑑」と出版社の損益分岐点

 ところで、軍記物語である「江源武鑑」のコストと売価を調べ、書林(出版社)である荒木利兵衛にとって損益分岐点となる、最低販売部数について見てみよう。

橋口 候之介
「続和本入門 江戸の本屋と本づくり」87~89頁

 先ず下記の点を確認しておこう。橋口氏によると以下の様になる。
①1匁(もんめ)=3200円。
②紙代は、1万2千枚で70~94匁。(今回は仮に84匁とする)
③印刷代は、10枚当たり2厘5分=400枚で1匁。
④製本代は、「六如庵詩鈔」(3冊)で1部0.75匁。
(「江源武鑑」は20冊)

 これに次の情報を加える。
⑤「江源武鑑」は縦26㎝で、大本である。
 (国会図書館本の「千金方薬注」も26㎝で大本のため)
⑥「江源武鑑」の版木数は、848枚である。
 (弘文堂出版「縮刷 江源武鑑 全一巻」424頁×1頁当り2枚による)
⑦諸経費は格安価格とする。

 これを前提に計算すると、次の通りになる。

 一方、売価について見てみよう。橋口氏の同書87~89頁の解説によると、物之本と呼ばれる専門的な学術書は、1冊当り1.7匁~1.8匁であるとされている。「江源武鑑」は1冊当り平均42丁で20冊セットであるから、1.75×20=34匁前後になるはずである。
 そこで、宝永6年(1709年)に出版された「増益書籍目録」に、「江源武鑑」の売価についての記載があるので見てみよう。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「増益書籍目録」
請求記号 わ025‐3

(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 「増益書籍目録」)

 上記の通り38匁としており、橋口氏の指摘通りである。妥当な売価だった事が分かる。また現代価格だと、1部12万1600円であり、かなりの高額商品であったことが分かる。
 以上の情報が分かったところで、損益分岐点の計算に入ろう。上記費用の内、版木は1回彫ればずっと使えるので、版木の彫賃は部数に関係なく一定である。
 他方、紙・印刷・製本・諸経費の4流動費は、部数に正比例して増大し、1部13.256匁である。すると下記の計算結果となる。

 次に粗利の24.744匁で彫賃4850.56匁に充てる事になる。すると、4850.56÷24.744=196部強で黒字転換できることになる。
 以上により、「江源武鑑」という本は少数の富裕層、すなわち知識人階級をターゲットにして売り出されたと思われる。

 

 第7節 江源武鑑の高額過ぎる出版費用

 ところで、「江源武鑑」は天文6年(1537年)から筆を起こし、日次記形式を取り20巻目で佐々木氏郷が登場する。この事は、20巻目まで全てを刊行しない限り、氏郷の系譜を六角氏に繋げられない事を意味する。
 すなわち、1部も売れない内から彫賃1552万1792円の負債が発生するのである。前述した通り、荒木利兵衛はこの年「江源武鑑」以外に5冊(52巻)も出版している、18巻で上記金額ならば、単純計算で6冊(70巻)で6千万円以上の負担となる。
 当時はまだ出版業界の黎明期であった事を考えると、これら全てを荒木利兵衛が負担していたとは考え難い。固定費・流動費共に、著作者が負担していたと考えるべきである。すると、「江源武鑑」の著作者が負担するべき、損益分岐点である196部の出版費用は次の通りとなる。

 いかがだろうか? 士官活動失敗伝説の怪しさも相まって、「大系図評判遮中抄」を鵜呑みにして同書を沢田源内(氏郷)の著作であると、何の疑問も抱かずに主張する通説の態度にこそ疑問を抱かざるを得ない。



 第8節 合わない系譜伝承

 ところで、通説通りに「江源武鑑」を氏郷の著作だと仮定すると、1つの問題が生じる。「江源武鑑」の伝える佐々木六角氏綱の子孫、即ち、義実・義秀・義郷の生没年が、氏郷本人が伝える前記各人の生没年と一致しないのだ。後述するが、氏郷は元禄2年(1689年)に沙沙貴神社の「沙々貴大系図」を直筆で書写しているので、「江源武鑑」の記述と比較しながらご覧頂きたい。
 また後述するが、氏郷は天和3年(1683年)の浪人改めに際しても、父親が60歳にて逝去したと述べているため、あくまでも「沙々貴大系図」の説に従っていたことが判明している。

京都歴史学・歴彩館所蔵
「沙々貴大系図」
請求記号 特930-30








 第8節 江源武鑑の出版と江陽六角屋形年譜

 「江源武鑑」と氏郷本人による系譜伝承の不一致について、興味深い記事が存在する。「江源武鑑」の元和9年条によると、天正2年(1574年)迄は『毎月ノ正記』であり、以降の元和迄の日記は義郷の家来の家々に書き置かれた物を集めて記したのだとする。
 この記事は一見、「江源武鑑」の編集が2段階に分かれて行われたように見える。しかし通説では、同書の全部が沢田源内(佐々木氏郷)によって著されたと見られていたため、特に問題視されていなかった。
 ところが、氏郷生存時の延宝9年(1681年)に、「江源武鑑」天正2年以降と同内容を書いたとする人物が、名指しで指摘されていたのである。それが「江陽六角屋形年譜」である。同書の主張は「江源武鑑」と極似しているが、天正2年(1674年)以降の分は、「義範」の父親で氏郷の弟である、「義廣」なる人物が書いたとする。ただし、氏郷直筆「沙々貴大系図」では氏郷の弟は早世したとし、主張が一致しない。
 現時点では義廣親子について判明している事項はない。しかし、義範が氏郷没後に「四海太平記」を出版している所から、少なくとも義範は氏郷とは別人であると思われる。
 
京都歴史学・歴彩館デジタルアーカイブ所蔵
「江陽六角屋形年譜」
請求記号  貴199