第7章 江源武鑑版木破壊伝説の検証


 第1節 通説の概要

 この伝説について、通説たる「大系図評判遮中抄」では、士官活動失敗伝説によって近江から逃げ帰ってきた沢田源内は、しばらく身を潜めていたが追手が来ない事に気が付いた。そこで再び野心が芽生え、源内こと氏郷が正統後継者であるとする偽書(ウソの歴史が書かれた本)を出版した。しかし佐々木義忠の咎に遭い、版木を打ち砕かれたというとしている。



  第2節 松尾芭蕉の死去と弟子による罵り合い

 さて、ここでいきなり松尾芭蕉の話になる。芭蕉が元禄7年(1694年)に没し、10人の優れた弟子(蕉門十哲)が残された。
 事件はこの内の1人で、若い各務支考が、そこから三里しか離れていない京都の松本なる所に、芭蕉の碑を建て塚を築いた事に端を発した。この事は同じ十哲の1人で9歳年上であり、古風な考えを持つ越智越人にとっては許せない事であったようだ。そして事態は悪化する。
 何と支考とその弟子達が、この碑の碑文に墨を入れ直すというイベントを行い大成功したらしい。無論、発案した支考一派の人気も急上昇したのである。
 時代に合わない古い考えに古い俳風、高齢者の上に人気も今一つであった越智越人にとって、もはや我慢の限界であった。彼は「不猫蛇」という書物を書いて支考一派を猛攻撃した。当然、支考一派に「削りかけの返事」という書物で猛反論を返されることになった。
 すると越人は、今度は「猪の早太」という享保14年(1729年)7月刊行の本にて、激しく支考一派を再攻撃するのであった。同書で越人が次の事を述べている。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「猪の早太」
請求記号 515-129-(14)
 
(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 「猪の早太」

 つまり越人は、明暦2年(1656年)の「江源武鑑」出版以降、享保14年(1729年)7月までにもう1回、井筒屋及び橘屋によって「江源武鑑」が出版されたと証言しているのである。

 


  第3節 明暦2年版と延享5年版の「江源武鑑」

 さらに今一度「国書総目録」を見ると、次の様に記載されている。

元和7年(1621年) 版本
寛永4年(1627年) 写本
明暦2年(1656年) 版本
延享5年(1748年) 版本
刊行年不明     版本

 この内、「延享5年版 江源武鑑」については宮内庁書陵部に存在し、その実在を確認できたので、国立公文書館デジタルアーカイブの明暦2年版と比較してみよう。なお、全ページを掲載する事は合理的ではないので、代表的な画像を掲載させて頂いた。

宮内庁書陵部所蔵国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵
「江源武鑑」(延享5年版)「江源武鑑」(明暦2年版)
函架番号 254 ・165
枝番号 0000
請求番号 169-0088
 
(左:延享版 中央:明暦版 右:半透明の延享版を明暦版の上に重ねた画像)


(左上段:延享版 左下段:明暦版 右:半透明の延享版を明暦版の上に重ねた画像)

 いかがだろうか? 完全に一致している事が見て取れる事と思う。また、延享版の刊記が、明暦版の版木を入手して彫り込んでいる事が分かる。
 以上、明暦2年版と延享5年版の版木は同一であると断定できる。


  第4節 京都市の寺町通

 それでは、総数800枚以上にもなる「江源武鑑」の版木は、明暦2年(1656年)に誕生してから延享5年(1748年)までの92年間を、何処で過ごしていたのであろうか? 実はそれを推測できる史料が存在する。それが各書林(出版社)が書いていた刊記である。
 前掲の画像で、延享5年版を出版した枡屋孫兵衛と梅村三良兵衛の所在地が、京都の寺町通松原(現在の京都市下京区寺町通松原)である事が分かる。次に、明暦2年版を出版した荒木利兵衛、そして元禄頃に出版をした井筒屋庄兵衛の所在地を見てみよう。

国立国会図書館 デジタルコレクション所蔵国文学史料館 新日本古典籍総合データベース
「桃実集」「武者物語」
請求記号 は-87請求記号 96-212-1~3

 
 いかがだろうか? 全ての書林(出版社)が京都市の寺町通に集中しているのである。寺町二条と寺町松原の間は、現在の地図でおよそ1.6㎞・標高差8.3mである。荒木利兵衛の詳しい所在地が分からないが、恐らくこの間に所在していたのであろう。この距離と標高差であれば、大八車などで十分移動できるのである。

 すなわち、「江源武鑑」の版木は明暦2年(1656年)に制作されてから、破壊される事もなく殆ど移動する事もなく、延享5年(1748年)まで書林(出版社)の許で存在していたと考えられる。それは、版木という物が出版権と合わせて1つの財産を形成するものであり、書林(出版社)が大切に保管していたからであると考えられるからである。
 では次節にて、「江源武鑑」の版木と一体をなす出版権はどうだったのかについて見ていきたい。

 

  第5節 京都書林仲間記録

 通説たる「大系図評判遮中抄」では「江源武鑑」の出版後に、佐々木義忠の咎に遭って版木を破壊されたとしている。書林(出版社)が出版権を有している版木を破壊するのであるから、当然に出版権も佐々木義忠を通じて、幕府の手によって召し上げられたと理解しているのであろう。
 しかし、実際は「江源武鑑」の出版権は法的保護を受けていたのである。それを証明する史料が「京都書林仲間記録」である。

宗政五十緒・朝倉治彦
「京都書林仲間記録 ★★★★★ 書誌書目シリーズ⑤」
ゆまに書房
昭和52年(1977年)刊行

 同書の25頁目には、佐々貴義範なる人物によって正徳5年(1715年)に「四海太平記」なる書物が出版された事に端を発する、出版差し止め訴訟について記録されている。この「四海太平記」は室町時代から戦国時代事の事を記述しているが、佐々木六角氏の氏綱流である義実等も登場する。この事が「江源武鑑」からの盗作と疑われたのだろう。

 

このように、書林仲間の行事(仲裁権者に相当)が決定している。「江源武鑑」が「重編応仁記」と共に、盗作されないよう保護されている様子が見て取れる。

 

  第6節 結論

 以上に見てきたように「江源武鑑」については、その版木は書林(出版社)にて大切に保管され、出版権については京都書林の行事(仲裁権者に相当)により盗作されないよう保護されていた、と結論付けられる。
 よって、版木破壊伝説は虚説であったと断定できる。