第8章 『江源武鑑』の作者像と『酬恩庵文書』

   第1節 序論

  ところで、村井祐樹氏が去る令和元年(2019年)に『六角定頼 ―部門の棟梁、天下を平定す―』を出版された。そして氏は、京都府田辺市にある酬恩庵(通称:一休寺)から平成29年(2017年)に見つかった新史料を紹介されるとともに、『加賀藩士佐々木氏』が嫡流との説を提唱されたので、ここに紹介したい。なお、文章をそのまま引用すると長いので、要点をまとめるにとどめる。

 

  第2節 村井祐樹氏の著書 まとめ

 去る平成29年(2017年)、報恩庵から六角氏関係の史料が見つかった。元々この寺には承禎と息子義治(氏は義堯と同一人物視)のお墓があり、それは周知の事であった。しかしそれだけに留まらず、以下の物まで残されていた。それは以下の物であった。

『承禎の位牌』
『義治(義堯と同一視)の位牌』
『過去帳(供養帳)』

 そしてこれらの物が遺されていた事により、報恩庵が六角氏の菩提寺であった事を確定する事ができた。
 また慶長8年付の文書が残されており、慶長8年に承禎の次男高定が同寺へ墓参りをしたと記されていた。これで慶長8年(1603年)には、同寺に承禎の墓があった事が確実になった。
 過去帳によれば、義治(義堯と同一視)には男子が無く娘だけであった。そこで弟の高定の息子とこの娘を結婚させたとしている。
義治(義堯と同一視)が父承禎から家督を受けており、その娘と結婚しその後加賀藩に仕えた一族、すなわち『加賀藩士佐々木氏』が正統だということになる。
 さらに過去帳には、覚園院殿=義治(義堯と同一視)の7回忌法要を行ったメモも残されていた。
 また同寺には、年未詳ながら高定(承禎の次男)の息子『定治』が同寺に出した書状が残っていた。村井氏の現代語訳によると『先祖の位牌の写しを送って下さってありがとうございます。後便の際、没年が分かりましたら書いてお送りください。梅心院(承禎)・覚薗院(義堯)の没年等はこちらにあります。まずはこのたび報恩庵の再興が命じられたことめでたく思います。』
 報恩庵の建立が命じられている事から、慶安3年(1650年)頃の書状と確定できる。前田家の援助で報恩庵が再興されるにつき、前田家の方でも加賀藩士佐々木氏が正統だと認識していた上で、佐々木定治を連絡役にしたものと思われる。

 

  第3節 村井祐樹氏の主張 まとめ

 以上、村井氏の主張をまとめると、以下のようになる。
①酬恩庵に位牌が残されていた
②加賀藩士佐々木氏が、承禎の墓参りをした。
③義治(義堯と同一視)の7回忌の経費メモがあった。
④酬恩庵と加賀藩士佐々木氏が連絡を取っていた。
⑤その加賀藩士佐々木氏には、承禎と義治(義堯と同一視)の没年の系譜伝承があった。
 以上により、『加賀藩士佐々木氏』が嫡流と主張されているのである。
 なお『佐々木氏郷』については、『大系図評判遮中抄』を根拠に偽物とされている。また『江源武鑑』に関しては『あえて言おう、カスであると』とされており、深い考察はされていないようである。

 

  第4節 『江源武鑑』作者の知識

 では、ここで改めて『江源武鑑』の作者が『承禎』と『義治』の没年と戒名について、如何なる知識を持っていたのかについて見ていきたい。『江源武鑑』では
①承禎について『慶長3年3月14日 梅心院』とし、没年・戒名共に正しく記載している。
②息子義治の没年は『慶長17年10月12日』とし、10日のみずれている。誤りと言えば誤りだが、これは誤写の範囲内だろう。
③『江源武鑑』はおよそ1千5百頁あり、明暦2年(1656年)出版と考えられる。調査・執筆を3年とすると定治書状の時期とほぼ一致する。
④また『酬恩庵史料』は今回初めて見つかった。従って、それまでは一般人がそれを見る事は出来なかっただろう。
⑤承禎の墓などは摩耗が激しく、表面の文字の損傷が激しいが、没年の記載などは見る限りは無さそうだ。
⑥すると、加賀藩士佐々木氏以外の人間は、別ルートでこれらの情報を仕入れなければならない事が理解される。
⑦となると、恐らくは寛永20年(1643年)に成立した『寛永諸家系図伝』で仕入れるしかないだろう。

 

  第5節 寛永諸家系図伝の諸本とその入手

 それでは、まず一般人たる『寛永諸家系図伝』に触れる事が出来たかについて見てみたい。
 同書の諸本については『レファレンス共同データベース』にて徹底的に調べ上げられており、これ以上の発見はなかろう。管理番号『20130712-2』の『『寛永諸家系図伝』について知りたい。』によると、調査結果は以下の通りであった。

『【写】国会(四〇二冊)(二〇冊),内閣(寛永写)(明治写一八一冊)(二部)(真名本、江戸初期写三一冊),宮書(寛政一一写一冊)(清和源氏大綱惣括、江戸時代写一冊)(有馬家譜書抜一冊)(序示諭源氏条例総目共),東博(江戸中期写一冊),慶大富士川(一冊),東北大狩野(内藤家、天保一四写一冊),広島大(七冊),蓬左,栗田(「寛永呈譜」、三八冊),乾々(医家部、天保五写八冊),神宮(「寛永諸家系図略」、寛文六写一冊),尊経(一三冊)(一八六冊),天理(一冊),旧彰考(六〇冊本三部)(七冊),旧蓬左(一冊),[補遺]東大史料(内閣蔵本写一八〇冊)
【複】〔複〕[補遺]寛永諸系図伝(昭和三九)』

 以上により、江戸時代の一般人、特に『寛永諸家系図伝』成立からわずか13年以内の一般人にとっては、刊本が存在しておらず入手不可であると結論付けられる。

 

  第6節 国士館日録

 では『寛永諸家系図伝』の編纂委員が、後に『江源武鑑』を書いたとしたらどうだろう? 
 『沢田源内=編纂委員』説を取って、その生年を10年以上無理矢理に繰り上げ、住所も江戸在住に書き換え、その上江戸城内で勤務という、『大系図評判遮中抄』を無視した状態にしてでも『沢田源内作者説』に固執してみるのである。
 ところが、それでも成り立たないのだ。『寛永諸家系図伝』の編纂に関与していた、林羅山の三男『林鵞峯』が、『江源武鑑』の刊行直後の寛文9年(1669年)に、同書について触れていたのである。
 『国士館日録』の寛文9年6月12日条では、『令安成』という人物が『江源武鑑』は偽書で、おおよそ『太平記』以後の我が国の書物には、偽書が多いという旨を述べている。しかし、それに対し林が何も言っていないのである。これは『江源武鑑』に対し、林が知識を持っていなかったからだと思われる。
 『江源武鑑』刊行から13年、広く流布した『偽書』が『寛永諸家系図伝』の編纂委員によるものであったら、何かしらの情報が入っていて当然のはずである。何も言っていないという事は、編纂委員は『江源武鑑』の作者ではないという事を指すのだろう。
 よって『佐々木六角系譜研究室』は、『江源武鑑』の作者には、加賀藩士佐々木氏と同等もしくはそれ以上の、独自の系譜伝承が有ったと言わざるを得ないと考える。