第9章 大系図出版伝説の検証


 第1節 通説の概要

 大系図出版伝説の検証についてであるが、通説たる「大系図評判遮中抄」の該当箇所が長文に及ぶため、まずは「大系図評判遮中抄」の原文と現代語訳を見てみよう。

 

 

 以上であるが、ここで次節以下で述べる説明の理解のために、時系列順に並べてみよう。ご記憶頂きたい。



 第2節 2つの書籍目録

 では検証に入るとしよう。実際に氏郷生存時に「諸家大系図」なる系図集が出版されたようである。皆川完一氏・山本信吉氏の解説に、以下の説明がなされている。
 なお、画像をクリックする事で拡大してご覧頂けるので、ご活用頂きたい。

吉川弘文館刊行
「国史大系書目外題」
下巻
943頁




 また、皆川氏・山本氏が指摘されるように、「諸家大系図」が先に出版された事は、「寛文書籍目録」が「諸家大系図」が先に出版されたように記している事から知る事が出来る。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「寛文書籍目録」
請求記号 025.1-To452s

(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 「寛文書籍目録」)

 以上、両書の刊行年は以下の通りとなる。
諸家大系図 = 慶安5年(1652年)~明暦2年(1656年)
新版大系図 = 明暦2年(1656年)

  第3節 住所と出版年と士官活動失敗伝説

 ここへ氏郷の住所の情報を加えてみよう。後述するが、河端半兵衛正綱という人物が明暦2年(1656年)4月に、近江の志賀にある氏郷の家を訪れ、氏郷から唐紙を貰っている。
 また、天和3年(1683年)の浪人改めの際、氏郷は延宝8年(1680年)に近江から京都中心部の「六條道場之内、萬願寺」に移り住んだと申告している。

 以上を見ると、実に不可思議な点が見えてくる。仮に士官活動失敗伝説が史実と仮定し、氏郷が江戸から近江に戻って潜伏していたとしよう。そして近江に居ながら、明暦2年霜月(1656年11月)に江源武鑑を出版したとしよう。
 ところが、閏月が同年4月に有り、「新版大系図」が同年に出版されている以上、年末までは60日弱しかない。すると次の如く、あり得ないスケジュールが現出するのである。


 いかがだろうか? しかもその後の延宝8年(1680年)に、また何事も無かったかの様に、近江から京都中心部の「六條道場之内、萬願寺」に移り住んだというのである。
 こんなバカな話はあるまい。大系図出版伝説は虚説であったと言えよう。


  第3説 氏郷と西道智

 これを決定的にするのが、他でもない両書の作者に関する記述なのである。皆川氏・山本氏の解説を今一度見てみよう。

 

 以上、両書の作者についての情報を整理してみよう。「諸家大系図」については、第4冊に著作の理由が書かれている。この作者が慶安4年(1651年)に29歳ということは、元和9年(1623年)生まれである。また、江戸城に登城しているため氏郷ではない。建部賢明が第4冊を読んでいなかった為、気付くことが出来なかったのであろう。

 「新版大系図」の方では、賢明が本書の作者について何の知識も有しておらず、本文を読んでさえいなかった疑惑がより一層深まる。すなわち、「新版大系図」では跋文に「西氏某」とある事から、建部賢明が本書を読んでいたらすぐに気が付くはずである。それさえも気づかなかったという事は、賢明は跋文さえも読んでいなかったと言ってよかろう。
 その上、「寛文書籍目録」や「広益書籍目録大全」を見ると、西道智は様々な書物を書いている。「保元平治大全」や「平家物語大抄」などである。明らかに氏郷と西道智は別人である。
 よって通説たる「大系図評判遮中抄」の、「是ヨリ猶其矯ヲ蔽ヒ隠ンカ為、昔将軍義満公ノ世、応永年中ニ特進亜三台藤原公定卿ノ撰セラレシ尊卑分脈系図ノ中、要ヲ摘テ諸家大系図(十四巻)ト号シテ世ニ行ハルゝヲ本トシ、佐々木ノ譜中ニ新ニ多クノ名諱ヲ偽作シ、己カ本姓沢田氏、外祖和田氏、従弟ノ畑氏、及ヒ此奸謀ニ与スル者ハ、皆私ニ其一流トナシ、又織田、朝倉、武田、豊臣ノ系中ニモ、彼虚名ニ妄説ヲ書添、其余諸氏ノ家伝ヲ拾ヒ集テ、真偽ヲモ正サス、悉ク書載セテ全部卅巻ト作シ、更ニ大系図ト名ケテ梓ニ鏤ム。」という部分は、全て誤りであると結論付けられる。