第11章 指名手配伝説の検証

   第1節 通説の概要

 通説たる『大系図評判遮中抄』では、明暦2年(1656年)以降に源内が京都に移り住んだが、その京都において官位を詐称する者共をことごとく捕まえて処罰されるという事が、幕府によって行われたとする。源内は『太輔』などと官位を詐称していたが、この事に大いに驚きたちまちに官位を称する事を止め身を隠したとする。

 

  第2節 伊達藩主による系譜探索と『六角中務』

 場所は変わって、仙台伊達藩の第4代伊達藩主の伊達綱村は、伊達家の祖先を知りたいと思い、伊達家の祖先調査を始めることにした。そこで『落合時成』という家臣を京都に派遣し、史料探索に当たらせることにした。そして時成が京都に到着して程なく、史料を入手することに成功したのである。
 その時の報告に基づき、伊達綱村が以下のように記録している。その記録『伊達正統世次考』巻之六の延宝14年条を見てみよう。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「伊達正統世次考」
請求記号 129‐108

(国立国会図書館所蔵 『伊達正統世次考』)

 この「処士」つまり浪人である「六角中務」が、氏郷の事であると考えられる。この事を次の史料を見ながら説明しよう。その史料とは、時成が木村に出会い、その直後に落合自身が同じく伊達家家臣の木斎遊佐に報告し、遊佐が書き留めた物である。

 

  第3節 落合時成が木斎遊佐に報告した内容

 木斎が記録した書物は『木斎紀年録』といい、『仙台藩史料大成 伊達治家記録』の第8巻15ページに当該部分が紹介されているので、その部分を見てみよう。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「仙台藩史料大成」
請求記号 GC22‐15



 「伊達正統世次考」に「後落合賓木村黄金若干」とあるので、金銭を渡した上で、適当にもっともらしい理由を言ったのであろう。兎にも角にも、落合は原本そのものを手に入れ、綱村に献上したのであった。この書物は伊達家に保管され、その後仙台市立博物館に寄贈され現存しているので見てみよう。


(仙台市立博物館所蔵 『成宗様御家伝之御書物』)


 ところで、『伊達出羽守』なる人物は、『江源武鑑』元亀4年4月21日条などで登場する。これにより『伊達出羽守』は佐々木六角一族であろうと推定される。
 また、木村は『六角中務』の家人であったので、六角中務が木村の主人、つまり佐々木六角一族の当主級の存在であることが分かる。以上により、
①『六角中務』は、京都周辺に住んでいたと推定される事
②氏郷も後述する通り、京都周辺に住んでいたと推定される事
③『六角中務』は佐々木六角家の当主級の存在であった事
④氏郷も後述する通り『佐々貴管領氏郷朝臣』と自称し、佐々木六角家当主であると主張していた事
⑤氏郷も後述する通り『京極家家臣某覚書抜萃』で『六角中務』と署名した事
 これらの条件を全て備える事ができるのは氏郷しかおらず、「六角中務」とは氏郷本人の事であると断定できる。


  第4節 天和3年閏5月の京都浪人改め

 ところで、当時に関する基本的な史料集として、「京都御役所向大概覚書」という書物がある。同書は享保2年(1717年)頃成立した、京都町奉行所の支配地域の状況とその権限について記した、奉行所役人の勤方の手引書である。いわば幕府側の記録である。同書に天和3年(1683年)に浪人改めが行われた記録が存在する。朝尾直弘氏の解説が平易で分かりやすいため、引用させて頂こう。

岩波書店刊行
朝尾直弘「朝尾直弘著作集」
第7巻
242頁



 実はこの時に、氏郷が京都に住んでいた。そして京都町奉行所へ同人の由緒書を提出したのである。その内容を堀田璋左右氏が以下に紹介されているので見てみよう。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「歴史地理」
請求記号 Z8‐289

(吉川弘文館刊行 『歴史地理』) 

 周知の通り、堀田璋左右氏は丸亀藩主京極家に存在した『京極氏家臣某覚書抜萃』を紹介した人物である。氏は『歴史地理』内において所蔵先などは一切触れていない。しかし『京極氏家臣某覚書抜萃』所収の高豊書状を見てみると、『中務親類書』という文言が登場している。



 この事で、この文言が本書の事であることが分かる。恐らく京極家の文書の中で見られたのであろう。さて、上記『由緒書』が真正本であるかどうかを見ていこう。

 第1に、日付が『天和三年閏五月廿日』とされており、京都町奉行所が同年に浪人改めを行ったとする記述と一致する。
 第2に、表題を『親類書』としており、本文中に『近キ親類無之候』とある。また本書を観喜光寺が『右之通無相違候』と保証している。これも奉行所が『親類書は居住の町に提出し、町が保証して町奉行所に報告』させた事と一致する。すなわち、『佐々木氏郷』は『親類書』を提出する必要が有ったが、『近キ親類』が居なかったため『観喜光寺』へ親類書の作成を依頼したのである。
 以上の通り、幕府側である京都町奉行所の記録と完全に一致する。間違いなく『佐々木氏郷』本人が作成し、そして奉行所へ提出された文書だと判断できる。また、次の事が判明する。
 ①『由緒書』に『依病気八年以前令上京』とある。すなわち『佐々木氏郷』が病気によって8年前の延宝3年(1675年)に、江州(滋賀県)から移り住んで来たことが分かる。
 ②『京都御役所向大概覚書』に『尤毎年増減相改』とあり、毎年記録を取っていたとしている。この事で、奉行所と所司代の双方が氏郷の記録を毎年取っていた事が分かる。
 最後に、『由緒書』には『三年以前ゟ者六條道場之内、萬願寺令旅宿候』とあり、3年前の延宝8年(1680年)から『六條道場之内、萬願寺』に住んでいたとしている。この記録が正しかったのかどうか、京都所司代及び町奉行所の記録と照合してみよう。



  第5節 京都所司代と佐々木氏郷の住所

 前記浪人改めの直後、江戸幕府が歴史編纂事業を本格的に行おうと考え、天和3年(1683年)11月12日に史料提出の命が幕府より下った。今回は寛永諸家系図伝編纂の時とは異なり、大名から一般庶民に至るまで、広く史料の提出を募る事になった。
 京都所司代稲葉正通の元にもその命が届き、管轄範囲において広く史料を募った。稲葉は5月11日付で報告書を送っている。年未詳だが、恐らくは翌年の事であろう。こうして集められた史料群を「貞享書上」という。先ほどの5月11日付報告書もこの中に記録されている。但し各史料群は形態がバラバラであった為、使い辛く散逸の恐れもあったので、後に転写され「譜諜餘録」という名前で纏められた。
 この中に、磯部佳宗氏が氏郷の住所と所持品を発見されたので、同氏の論文と共に見てみよう。

 



次に「京都御役所向大概覚書」を見てみよう。
清文堂出版株式会社
『京都御役所向大概覚書』
上巻

(清文堂出版株式会社 『京都御役所向大概覚書』)


 以上の通り、氏郷の「由緒書」、京都所司代の「貞享書上」、そして京都町奉行所の「京都御役所向大概覚書」の3つの記録が完全に一致している。このため、この事は揺るぎない事実であると断定できる。
 ところで氏郷の住所について、言葉では地理を理解しづらいので、当時の地図で確認してみよう。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
『京都市史. 地図編』
請求記号431-33
「新板平安城東西南北町並洛外之図」寛文2年(1662年)刊行

(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
(「新板平安城東西南北町並洛外之図」)

 
 この様に実際に地図で見ると、氏郷が繁華街の中心部で堂々と生活をしていた事が分かる。
 以上、佐々木氏郷が家人の木村佐大夫を通して仙台藩伊達家へ史料提供を行った事、そしてその後も、京都所司代及び京都町奉行所へ住所を教えている事、そして氏郷の住所が繁華街の中心部である事により、「大系図評判遮中抄」の言う指名手配伝説は誤りであると断定できる



  第6節 京都浪人・帯刀人改め

 ところで、京都所司代や京都町奉行所は、京都に居住する浪人(仕官していない武士の意味。牢人とも言う。)に対していかように考え、どのような対応をしていたのであろうか? また、浪人が勝手に京都市内に移り住むことが出来たのであろうか? その事に対する論文がある。朝尾直弘氏『近世京都の牢人』(朝尾直弘著作集 第7巻 所収)を見てみよう。長文のため概略のみ紹介する。

 同論文によれば、元和9年(1623年)に京都所司代がお触れを出した。それによると、再仕官を希望する浪人・寺に居住しながら出家のための学問をしない浪人・合力(援助金)を受けている浪人等は京都から追放された。京都への定住が許された者は、長年商売をし町人化した浪人・公儀によって把握された浪人などであった。このため追放を基本としつつ、一定の条件で定住を認めている事になる。
 この後寛永11年(1634年)にお触れが出された。これは京中出入りの浪人人数を調査するためであったが、再仕官の行動に出る事や、浪人である事によって追放される事は無いと明言されている。同論文の言葉を引用すれば「追放政策は転換し、管理・掌握へと移った」のである。
 更にこの後、寛永20年(1643年)に上下京の町代に対し、浪人の調査を命じている。これによって57名の浪人がピックアップされた。この記録を「牢人御改帳張留」という。ピックアップされた人々はいずれも上級武士と言える階級に属していたと言える。同論文では「大雑把にいって、徳川直臣・譜代大名の牢人が十七名、外様系大名の牢人が三四名、不詳二名」としている。なお、この中に氏郷及び彼の父親とされる「佐々木義郷」等の名はない。
 寛文8年(1668年)に京都町奉行所が設置されるに従い、浪人に対する取り扱いも大きく変化していった。浪人改め(浪人調査)から帯刀人改めへ変化し、取り込まれていったのである。この背景には短期的な奉公人が、奉公後にも帯刀してしまう事に対する取り締まりとして表面化してきたことが挙げられる。
 貞享元年(1684年)には同心足軽の類・浪人など「刀ヲ指候者」つまり帯刀しているだけで「その品書付、指越可被申候」つまり届け出が必要になったのである。そしてこの帯刀人規制は、町人百姓等にも及ぶ、より包括的な規制となっていくのである。

 以上の通り、朝尾直弘氏『近世京都の牢人』を概観してきたのであるが、氏郷と京都所司代が接触したのはこの頃である。氏郷は後述する「京極家家臣某覚書抜萃」にて浪人であると明言されているため、当然に帯刀していたと見るべきである。すると当然に京都町奉行所役人等の目に留まる筈である。後述するとおり、氏郷は黒川道祐等に公然と接触している事から、この帯刀人規制による届け出を出していたと理解するべきである。
 氏郷は京都への定住をするにあたり、事前に京都所司代又は京都町奉行所へ届け出をし、公然と京都生活を始めたと理解できる。