第8章 紀州藩士『神戸能房』による『佐々木氏郷』への弾劾

 
  第1節 神戸能房著作「伊勢記」

 ところで、氏郷や聖衆来迎寺の和尚がこの様な活動を続けていた中、紀州藩士の神戸能房が寛文6年(1666年)に「伊勢記」を執筆し、氏郷に対して激しく攻撃していたのである。この事を勢田道生氏が発見され、下記論文に紹介された。

 




 これを要約すると以下のようになる。

①氏郷は、佐々木六角氏の子孫であると詐称している。
②江源武鑑を偽作した。
③30巻の大系図や、太田泉州(太田牛一)の関ケ原軍記などに、『義秀』『義弼』等の偽名を書き加えた。
④慶安(1648年~1652年)の頃から、六角兵部と名乗っていた。
⑤大国賊である。

 

  第2節 氏郷逮捕の可能性について

 従来の通説は、氏郷の生存時には氏郷を偽系図作者として糾弾する者が居なかったとし、だからこそ氏郷は天寿を全うできたとする。そして、氏郷没後に『大系図評判遮中抄』などによって、『佐々木氏郷』が『沢田源内』と同一人物であるとの主張がされ始めたとする。
 ところが実際には、神戸能房によって『大国賊』とまで激しく糾弾されている。また、伊勢記はその後江戸幕府に献上されたようである。
 これによって江戸幕府に氏郷の存在が知れ渡っていたことは、ほぼ確実だろう。すると、氏郷は何時にでも幕府によって逮捕・処刑される危険を背負っていた事になる。
  だがしかし、当時の史料を見る限り、氏郷はそのような事を全く気にしている様子がない。その後も『人鏡論』で位階四位以上である、『朝臣』を自称している。あまつさえ氏郷の家人が仙台藩の代表者である落合時成、つまり幕府関係者とも出会っている。更には、京都所司代に自身の住所を正確に告げている。

 そして、元禄6年(1693年)初夏以降に没するまで、実に27年間程もそのような生活を送っている。これをどのように理解すればいいのだろうか?
 氏郷生存時に、既に数多の人が彼の事を書いているため、有名人であった事は免れまい。全くの無名人ならばともかく、氏郷程の有名人を幕府が放っておいたとは考え難い。
 現状、想像ではあるが、考えられるのは、
①氏郷には強力な後ろ盾があった。
②幕府自身に、氏郷が嫡流であるという証拠があった。
③その他
 等であろう。今後は幕府内部の氏郷に対する考え方が分かる史料を探し出す必要があろう。


  第3節 活動を止めない『佐々木氏郷』と『大荒比古神社』

 さて、通説たる「大系図評判遮中抄」では、京都所司代が官位を詐称する者を逮捕・処刑したため、氏郷は大いに驚きどこかに潜伏、「恐懼ノ中」すなわち薄氷を踏む思いで過ごしながら没したとする。
 しかし、実際には全く逆の人物であったと言わざるを得ないだろう。史実の氏郷は、神戸能房に名指しで出生詐称であると指弾され、大国賊と糾弾され、なおかつ幕府にそれが知れ渡っても全く気にせず、それどころか更に活動を活発化させ、しかもそれを公然と行っていく人物だったのである。それが下記史料である。

 

 

(大荒比古神社所蔵 『古社調査書控』)


(滋賀県立図書館所蔵『調査報告書』)


 いかがだろうか? 上記2つの調査書によって、寛文9年(1659年)10月には氏郷が大荒比古神社へ同社の縁起を奉納していた事が分かる。
 ところで、明治調査書が佐々「木」管領源朝臣氏郷としている。しかし、後述するが、氏郷は「佐々貴」が嫡流を表し、「佐々木」は庶流を表すと認識しており、平成調査書の佐々「貴」管領源朝臣氏郷が原本記載の文言であると思われる。原本の所在については現在調査中である。
 また同社の宝物を見ると、「河内宮縁起」の他に「鎗」1筋が氏郷から直接奉納されている。この他に、同年に氏郷が社号を書いた版木が、同郡堀川村の阿弥陀寺住職である林昌和尚から奉納されている。同年に氏郷が大荒比古神社と阿弥陀寺という2つの社寺とやり取りをしていた事が分かる。氏郷が実際には潜伏など全くしていなかった事がお分かり頂けると思う。