第10章 沙沙貴神社と『佐々木氏郷』の『佐々貴文庫』

   第1節 黒川道祐の『近畿游覧誌稿』

 
 さて、前章にて『佐々木氏郷』が京極家に幾つかの旧蔵品を譲渡した事を述べたが、それまでは氏郷が自身の私設文庫である『佐々貴文庫』にて保管していた可能性がある。この事を黒川道祐の『近畿游覧誌稿』から読み取っていこう。
 同書の『江東行』には、道祐が貞享3年(1686年)に滋賀県の湖東地方を巡っており、その途中で沙沙貴神社に立ち寄った時の事が記されている。その部分を引用してみよう。翻刻を所蔵されている国立国会図書館より、画像掲載の許可を頂いたのでご覧いただきたい。

(国立国会図書館所蔵 近畿游覧誌稿)

 上記黒川道祐の言う『六角中務』が氏郷の事であろう。すると、『六角中務恙ガ無ヤ否ト問フ、予時々参会ノ由ヲ談ス』という文章について、4つに解釈が分かれ得る。すなわち

 ①『恙ガ無ヤト問』うたのが道祐か深尾か?
 ②『六角中務』が時々参会していたのが、道祐か深尾か?
 の組み合わせである。このうち、氏郷に『時々参会』ていた本人が、『恙ガ無ヤ』と氏郷の安否を心配する発言をするのは不自然すぎる。すると、以下の2つに絞られる。
 ①安否を心配しているのが道祐・時々会っているのが深尾
 ②安否を心配しているのが深尾・時々会っているのが道祐

 そこで、『問フ』という能動態表現と、『ノ由』という受動態表現に注目したい。その上で、延宝3年(1675年)に出版された、同じく黒川道祐の『遠碧軒随筆』を参照すると、自然な解釈が導かれると思われる。
 すなわち同書が刊行された時点で『近江大溝の辺の雄琴と云所に、佐々木兵部と云人あり。今は左衛門と云。これが六角の末なり。』としており、9年前には氏郷の存在を知っていたことが分かる。
 すると、9年の月日はちょうど氏郷の安否を心配し始めるに十分な年月である。そこで道祐が『恙ガ無ヤト問』うたものと解釈できる。これに対して、深尾は氏郷に時々出会っていたため『時々参会』
と発言し、それを聞いた道祐が『ノ由』と受動態表現をとったものと思われる。そして、沙沙貴神社に氏郷が時々通っていたため、同神社の『神額』も見る事が出来たものと思われる。
 以上により、『佐々木氏郷』が延宝3年(1675年)頃に京都で公然と活動し、その後約9年間も人目を憚ることなく、公然と京都と沙沙貴神社とを移動をしていた事が分かる。なお『公然と』と言えるのは、黒川道祐や社司の深尾右京が簡単に口を滑らせている事から明らかである。この事でも通説による『指名手配伝説』が虚説である事が分かる。

 このように、『佐々木氏郷』は以前から時々沙沙貴神社に通っていたのであるが、氏郷が沙沙貴神社の『神額』に書かれている書体を使って、自らの『文庫所蔵印』を作ろうと考えたようだ。
 この後すぐの元禄2年(1689年)に、氏郷が沙沙貴神社の『沙々貴大系図』を直筆で書写し、『佐々貴文庫』という蔵書印を押している。京極家に『沙々貴神伝巻』等を渡してしまったが、やはり手元にも同じような物を置いておきたいと思ったのであろう。
 幸い、『沙々貴大系図』が現存し、所蔵先である京都歴彩館から掲載許可を頂くことが出来たのでご覧いただきたい。『江源明流』と『佐々貴文庫』の押印が見て取れる。
 また、『佐々木氏郷』の署名箇所には、『江源明流』印ともう1つ押印が見られる。『招提寺内興起後聞記併年寄分由緒実録』にて『朱印二ツアリ』とする事と共通する。

佐々木氏郷直筆写本『沙々貴大系図』

 次に上記『佐々貴文庫』蔵書印の『佐』の書体に注目していただきたい。沙沙貴神社所蔵の源頼朝自筆と伝わる、『沙沙貴神社神号額』の『佐』の書体と極似する事が分かる。同神社より『沙沙貴神社神号額』の画像掲載許可を頂いたので、ご覧頂きたい。

(左:佐々木氏郷の蔵書印 右:沙沙貴神社神号額)


 つまり、『佐々木氏郷』は古くから沙沙貴神社と交流があり、その交流があったからこそ、沙沙貴神社神号額の書体と極似する蔵書印を作ることが出来たのである。


  第2節 『佐々木氏郷』の沙沙貴神社参拝と同社の『宝物』

 上記の様に、『佐々木氏郷』が沙沙貴神社に時々参拝していたと説明してきたのであるが、実はその事を裏付ける史料が、同神社の宝物として所蔵されていたのである。
 平成14年(2002年)に、滋賀県教育委員会によって安土城及び織田信長関連の文書の調査がなされ、沙沙貴神社の文書も調査対象となった。その結果が同年に同教育委員会により刊行された、『安土城・織田信長関連文書調査報告12 沙沙貴神社文書』に記載されているので見てみよう。

(滋賀県立図書館所蔵 『安土城・織田信長関連文書調査報告12』)

 
 拡大図で示したように、特に下記3品について注目できる。

『堆朱香炉     六角義秀卿寄付』
『陣太鼓      六角佐々木家神伝之兵器』
『少彦名命御鎮座記 六角家廿七世左衛門佐氏郷卿筆』

 まず香炉についてであるが、『六角義秀』とは、通説で架空の存在とされている氏綱流の人物である。もし義秀が架空ならば、義秀を実在したように見せたい人間が奉納したのであろう。無論、『佐々木氏郷』が義秀の物だと言って奉納した可能性は十分ある。
 次の陣太鼓には『六角佐々木家神伝之兵器』とあるが、前述したように『佐々木氏郷』が丸亀藩主京極高豊に譲渡した品物の中に、『沙々貴神伝巻』1巻がある。『沙々貴神伝』の関連品として、氏郷が奉納したと考えるのが自然だろう。
 最後の『少彦名命御鎮座記』が最も注目できる。ここでは氏郷の自称『佐々貴管領氏郷朝臣』という呼び名では呼ばれていない。しかし氏郷が同神社の『沙々貴大系図』を書写した際に、自らを『廿七世』と名乗っている。また黒川道祐が延宝3年(1675年)の『遠碧軒随筆』で『近江大溝の辺の雄琴と云所に、佐々木兵部と云人あり。今は左衛門と云。これが六角の末なり。』と述べている。『今は左衛門と云』とあるので、同年頃に氏郷が『少彦名命御鎮座記』なる書物を書いて、沙々貴神社に奉納したであろう事が分かる。
 なお、『神号額』が見えるがこれが前述した、『佐々貴文庫』の印影における『神号額』の事である。これらの宝物は非公開故に画像掲載の許可を頂く事は出来なかった。しかし宮司の岳眞杜(おか まもる)氏によると、間違いなく現存しているとの回答を頂いた。この他、『小町老女像』と『天満宮繍像』も記憶に留めておきたい品物である。
 以上に見てきたように、


『佐々木日記』における、氏郷による参拝記録
『近畿游覧誌稿』における、社司の深尾右京常による証言
『佐々貴文庫』と『神号額』における、『佐』の書体の一致
『宝物書上』における、氏郷からの奉納品の記録

 これらの記録の全てが、『佐々木氏郷』と沙沙貴神社が繋がっていた事を示している。もはや沙沙貴神社と氏郷が無関係であったと主張する事は出来ないであろう。

 

 

  第3節 『佐々貴文庫』とは?

 ここで、更に『佐々貴文庫』とはいかなる規模で、具体的にどのような本が所蔵されていたのかを見てみよう。最初にその規模と歴史を示す史料を紹介したい。それが『大日本史料』の第8編第18部927頁所収の、『多賀文書』に添え書きされた氏郷の証言である。
 この『大日本史料』所収『多賀文書』には原本が存在し、東京大学史料編纂所に所蔵されている。同所には複数の『多賀文書』があるが、請求記号『BD2016-006900』が当該文書である。原蔵者の多賀力氏及び所蔵者の東京大学史料編纂所から、画像掲載の許可を頂いたのでご覧頂きたい。
 ところで、『大日本史料』に掲載されている翻刻文には、『胤』という文字が見受けられるが、内容から『郷』を誤翻刻した事が明白である。

(1枚目・2枚目は東京大学史料編纂所所蔵 『多賀文書』)
(3枚目は国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 『大日本史料』)

 以上、『大日本史料』の翻刻が述べる様に、『佐々貴文庫』が『佐々木氏郷』の父親とされる『佐々木義郷』の時代からあり、『古書あまた納め置ける』程に大きかったことが分かる。
 また、原本では『多賀高忠』の花押が見られる。このため、『佐々木氏郷』が原本にあった高忠本人の花押を書き写した可能性がある。この花押の形が、他の高忠直筆原本の花押と同じであるか否か、現在は確認作業ができていない。もし同じであったら、『佐々木氏郷』が古代文書を伝承していた事になる。


  第4節 『将軍家御成記佐々貴家古実』

 『特別展丸亀京極家―名門大名の江戸時代―』の中で、展示番号84番に『将軍家御成記佐々貴家古実』という物が含まれており、現在は丸亀市立資料館に所蔵されている。同館から掲載許可を頂いたので、『佐々木氏郷』の『佐々貴文庫』の蔵書印と比較しながら見てみよう。
 なお、同書は後世に写本が作られ、宮内庁書陵部に現存している。今回その全文の画像掲載許可を頂いた。本文を通読したい方は画像をクリックすると全文閲覧できるので、こちらをお勧めしたい。

丸亀市立資料館所蔵 『将軍家御成記佐々貴家古実』)

(宮内庁書陵部所蔵 『足利義晴佐々木亭御成記』)

 

 次に『特別展丸亀京極家―名門大名の江戸時代―』による解説を見てみよう。

『内題は「将軍家御成之日記并佐々貴家古実」となっている。将軍が他家を訪問する御成は、重要な儀式としてとらえられ、迎え入れや饗応の作法は故実となった。室町時代には京極家への将軍御成が恒例化していた。本書は、御成時の対応についての詳細を記録したものである。奥書などはないが、末尾に「記録所蔵」と記載されており、冒頭と末尾に「佐々貴文庫」の押印がある。表紙見返しに装飾紙を用い、木箱に収納されている。木箱の蓋表には「佐々貴故実覚書 一冊」の墨書がある。元禄九年(一六九六)「古帳御長持入日記」に「佐々木家江御成并古実書 一冊」と記載されているものに該当すると考えられる』

 以上により、京極家に譲渡され『佐々貴文庫』の印があった事から、『将軍家御成之日記并佐々貴家古実』が『佐々木氏郷』の旧蔵品であった事は確実である。

 

  第5節 『佐々木氏郷』旧蔵品まとめ

 以上の様に『佐々木氏郷』旧蔵品を検証してきたが、全てまとめると以下のようになる。

『沙々貴大系図』
『将軍家御成之日記并佐々貴家古実』
『多賀文書』
『沙々貴神伝巻』
『沙々貴神伝七相之讖書』
『犬追物絵図』
『佐々貴家犬追物本紀』
『佐々貴家犬追物古実巻』
『佐々貴家犬追物検見矢評議巻』
『二尊旗』
『正八幡大神佐々貴大神蒔絵軍配団扇』
『鞭』
『佐々貴少将義郷宛徳川家康書状』
『徳川家康の腰の物』

 

  第6節 田中教忠氏旧蔵本と『佐々貴文庫』

 これまで見てきたように、『佐々木氏郷』は様々な品を所持していたわけであるが、それらは『氏綱流』といわれる通説ではその存在が架空とされる、『義実―義秀―義郷』の時代の物が多い。従って、まだこの段階ではこれらを『偽作』と無理やり解釈できる余地が全く無い訳ではない。ところが、『佐々木氏郷』の『佐々貴文庫』の所蔵品の中には、これら三代より遥かに前の物も含まれていた可能性が高くなったのである。
 明治時代の収集家である田中教忠氏は、大量の書籍を所有していた。これを『田中氏旧蔵本』という。西尾市岩瀬文庫所蔵の西村兼文氏『西村随筆』に、『佐々貴文庫』に所蔵されていた本が田中氏の許に渡っていた事を示す記述がある。同文庫より画像掲載の許可を頂いたのでご覧頂きたい。

(西尾市岩瀬文庫所蔵 『西村随筆』)

 上記の通り『江源正統佐々貴之事』として、西村兼文氏の友人田中教忠氏所蔵の『三代実録』等に、『佐々貴文庫』『江源正統』蔵書印と『佐々貴二十八世氏熈』の識語があったと記されている。
 氏郷より後代の識語があるため、『三代実録』自体は後代に『佐々貴文庫』に入ったのかもしれない。しかしこの記事により、『佐々貴文庫』所蔵本が田中教忠氏に渡っていたのが確実なものとなった。


  第7節 『佐々木氏郷』の収集癖と『佐々貴文庫』

 この事を直接に証明する史料が存在する。それが国立歴史民俗博物館所蔵の『宸旦扶桑禅刹次第』である。この書物は、全国や唐の仏教寺院などを紹介したものである。もちろん佐々木六角氏の系譜関係の事は出てこない。
 同書については、同館発行の『国立歴史民俗博物館研究報告』第72集78頁に、田中本調査団による『『田中穣氏旧蔵典籍古文書』所収記録類目録』が掲載されており、146番として同書が見える。これにより同書が田中氏旧蔵本である事が分かる。
 次に、同書には『佐々貴文庫』の印影が見える。氏郷直筆『沙々貴大系図』に押印された『佐々貴文庫』の印影と見比べてみよう。

(左:宸旦扶桑禅刹次第 右:沙々貴大系図)

 いかがだろうか? 同書に見える『佐々貴文庫』の印影が、氏郷直筆『沙々貴大系図』の印影と完全に一致する事がお分かり頂けると思う。氏郷の旧蔵品が田中氏の許に渡っていたのである。
 『多賀高忠書状』で『古来稀年父義胤朝臣、古書あまた納め置ける文庫』とあるように、父親の代で既に収集癖が始まっていたのだろう。この収集癖は子である氏郷へ遺伝したようだ。『六角兵部殿』が、承応3年(1654年)に京都清水寺執行の田中宗親から、同人の父の事績を書いた書物を受け取っている。『佐々木氏郷』が『佐々貴文庫』の所蔵品を増やすために宗親に依頼したのであろう。親子揃って収集癖があった事が推定される。

 

  第8節 私領地譲手継文書

 これに伴い注目できるのが、田中教忠氏の子孫から後に国立歴史民俗博物館の所蔵に帰した『私領地譲手継文書』である。同館から画像の掲載許可を頂いたので、渡辺滋氏の解説と共に見てみよう。

(国立歴史民俗博物館所蔵 『私領地譲手継文書』)

国立歴史民俗博物館刊行
『国立歴史民俗博物館研究報告』
153集 310頁
渡辺滋「国立歴史民俗博物館所蔵の古代史料に関する書誌的検討」

  佐々木六角氏の正統後継者を主張する人物は、江戸初期では3者いる。1人は幕府旗本佐々木氏で江戸在住、もう1人は加賀藩士佐々木氏で加賀在住である。そして最後の1人が京都在住の『佐々木氏郷』なのである。そして実際に『佐々貴文庫』の本が田中教忠氏の手元に渡っている。

 これらを考え合わせると、『私領地譲手継文書』を所持し得たのは、『佐々木氏郷』以外ほぼ考えられない。氏郷は遥か古代の一次史料を、写本という形であったとしても伝承していた可能性が高いと言える。氏郷が豊富な史料の伝承者であったろう事が、お分かりいただけると思う。


  第9節 神道の『誠の道』と『人鏡論』

 この頃の氏郷は自身の宝物を京極家に託し、『六角家当主』としての為すべき事を、すべて果たしたと感じていたであろう事が想像される。これから人々は、そして社会はどうなって行くのだろうと思いを馳せたのであろう。沙沙貴神社に通っていた氏郷が、その神道の『極意』を世に伝えようとしたとしても不思議ではない。
 そして実際に、黒川道祐が沙沙貴神社に訪れた翌年に『人鏡論(金銀万能丸)』が出版された。そして物語の意味を冒頭で『人みな根をねとして根の心にもとずき、内をうちとして外を外とせば、我神明のいきをなめて、異国のためにもはづかしめらるべからず』としている点からも明らかである。
 『佐々木六角系譜研究室』の調査の限り、『佐々木氏郷』が同じく佐々木六角氏正統後継者を主張している『旗本佐々木氏』や『加賀藩士佐々木氏』を誹謗・中傷したりしている様子は全く無い。それは『神道の誠の道』に反するものだからだろう。