第11章 犬追物図絵

 
  第1節 概説

 前述したように、『佐々木氏郷』から京極家へ幾つかの所持品が譲渡されていたが、その中には『犬追物』に関する物も含まれていた。犬追物とは、騎馬で犬を追い,弓で射る騎射訓練の武術の事である。
 そこで、今一度氏郷からの犬追物に関する譲渡品を確認すると、以下の通りである。解説はパンフレット『特別展 丸亀京極家 ―名門大名の江戸時代―』に依った。

『犬追物絵図』
『佐々貴家犬追物本紀』
『佐々貴家犬追物古実巻』
『佐々貴家犬追物検見矢評議巻』

 『犬追物絵図』には図中に奥書があり『天文十九年五月大屋形義秀卿依貴命、土佐刑部少輔光茂、江州観音寺御城本丸画之蒙仰写之、御記録蔵入』とあり、天文19年(1550年)5月に絵師の土佐光茂が観音寺城本丸にあった絵を、屋形義秀の命により写したとする。
 『佐々貴家犬追物本紀』は、妖狐の化身である玉藻前退治のために行われた修練が犬追物の起源であると説いたものである。奥書があり『永禄二年三月朔日、蒙釣命、染渇筆、恥後見而巳 浅井備前守藤長政書也』としており、永禄2年(1559年)3月に屋形義秀の命により浅井長政が書いたとする。
 『佐々貴家犬追物古実巻』は犬追物に関する決まり事を65ヶ条に渡って記している。奥書があり『永禄二年春為後世可書写之旨蒙大屋形義秀公釣命、、染老筆訖、右件之御本書者御当家十九世満高朝臣御自筆也、其後御代々被加書之式法、亦繁多也 蒲生右兵衛大夫藤原賢秀書也』としており、六角満高自筆の書に代々加筆が行われ、永禄2年(1559年)春に屋形義秀の命により、蒲生賢秀が書き写したとする。
 『佐々貴家犬追物検見矢評議巻』は、犬追物の検見について図示しながら説明したものである。

 以上の様に概要を見てきたが、『犬追物絵図』奥書が天文19年(1550年)の事を述べているのに対し、残る3冊の内奥書を持つ2冊が永禄2年(1559年)の事を述べるという齟齬を生じているのである。
 
 第2節 犬追物絵図の類作

 さて、佐々木氏郷から譲渡された『犬追物絵図』に関してであるが、類作が存在する事がかねてから知られている。まず、その一覧を安田篤生氏『土佐派の犬追物図屏風について』から紹介しよう。
 それによると、以下の通りとなる。

【一枚図形式】
  ①国会図書館本(筆写年代不詳)
  ②東北大学本 (筆者年代不詳)
  ③和田家本  (筆者年代不詳)

 【巻子形式】
 〈土佐広通系〉
  ④尊経閣文庫本  (享保2年 1717年)筆写
  ⑤嶋田美術館本  (寛政5年 1793年)筆写
  ⑥国会図書館本  (文政3年 1820年)筆写
 〈別系〉
  ⑦東京国立博物館本(安永4年 1774年)筆写?
 〈不明〉
  ⑧『国史大辞典』(吉川弘文館)「犬追物」挿図

 そして、従来これらの原本が土佐光茂作とされた根拠が、一枚図形式本にある、佐々木氏郷『犬追物絵図』と同じ奥書であるとされてきたことを紹介されている。
 安田氏は当時の史料に『義秀』の名が見えない事、及び当時の光茂は複数の足利義晴像の作成に追われており、観音寺城にて犬追物絵図を制作する時間的余裕があったとは言えない事を根拠に、一枚図形式の奥書をそのまま信ずることは出来ないとされている。
 ところで巻子形式の模本の内、土佐広通系の模本には『土佐刑部大輔光茂筆 廣通写』とする奥書があり、同じく原本が土佐光茂作であるとされている。
 安田氏の解説によると、土佐光茂は永禄12年(1569年)に、門弟の光吉に代々の絵本や証文などを譲り渡した。その光吉の門弟が土佐広通なのであり、広通が光茂の絵に触れそれを模写した事は十分に考えられるとされている。さらに、この犬追物絵図を広通が模写したのは尊経閣文庫本にある書入れから、慶安3年(1650年)頃とみられるとされる。
 なお、安田氏はこの犬追物絵図について、土佐光茂の基準作である享禄本『当麻寺縁起』と比較して、原本を土佐光茂作として矛盾はないと結論付けられている。

 第3節 犬追物絵図の外壁
 ところで、安田氏によると一枚図形式の犬追物絵図には『埒(ラチと発音する)』と呼ばれる外壁が描かれているが、巻子形式の方にはどこにもその様な物は描かれてはいないとされる。以下、同氏の解説を引用しよう。
 また理解を深めるために、一枚図形式の犬追物絵図すなわち国会図書館所蔵『天文十九年佐々木義秀邸犬追物図』と、京都大学総合博物館所蔵『犬追物故実指図』をご覧頂きたい。なお、『天文十九年佐々木義秀邸犬追物図』は分割撮影をされており、それをPC上で接合した事をご了承願いたい。

(国会図書館所蔵『天文十九年佐々木義秀邸犬追物図』)


(京都大学総合博物館所蔵 『犬追物故実指図』)


『埒をよく見ると、いずれも画面周縁方向が上になっており、馬場から四方へ広がるように描かれている。また、馬場左端には、埒に沿って「家老座・旗頭座・諸評定衆座」と、桟敷の区分けが平面図で示されている。一方、日記所を含めて馬場内部の描写では、モチーフの上下方向は画面の上下と一致している。やや上から見下ろすように描かれた馬場の内部と、この埒がそぐわないのは明らかである。このような埒は、故実の内容を図示した故実指図(挿図8)の埒と非常によく似ており、光茂の描いた原本に本来あったものとは考えられない。
 一方、巻子形式のうち、土佐広通系の模本には、款記の後に簡略な全図が付られている。そして、そこには次のような書入れがある。
 
サシヅ
此絵ニハカクノブン也
本ハマハリニドテヲ
ツキサクヲウヱ
ド井ニ見物ヲ置也

 つまり此絵(伝えられている模本)はこのようなありさまである。本来は周囲に土手を築いて、柵を立て、土井に見物を置くのだというのである。この書入れこそが正しいのだろうか。これは土佐広通が模本を製作した時に知り得た情報を書き留めたものとみられるが、その内容が原本の様子を正しく伝えていることを裏付ける資料は存在しない。』

 とされており、巻子形式絵図の通り、元々は埒などは描かれていなかったと見るべきであろう。『佐々木六角系譜研究室』としても同意見である。なお、同氏の言う挿図8とは、現・京都大学総合博物館所蔵『犬追物故実指図』である事をお断りしておく。
 けだし、もし最初から埒が描かれていたのなら、高名な画家たる土佐光茂が大名たる六角義秀に命じられたにもかかわらず、埒と馬場の上下が一致しない絵を描くという愚行を犯すとは考えられないからである。また、観音寺城本丸にかように奇妙な絵が有ったと考えるのも不自然である。
 以上の様に埒などは最初は描かれていなかったと想定し、しかしながら巻子奥書が述べるように、土佐広通が『本来は周囲に土手を築いて、柵を立て、土井に見物を置くのだ』という情報を知っていたと仮定するのが正しい解釈であろう。
 ならば、当然にその故実を知りうる人物に情報提供を要請するのではなかろうか。そしてその故実の情報源が、多賀高忠『佐々貴御代々犬追物』であり、同書を所持し得た人物であったと推定できるのである。その事を次節以降で見てみよう。

 

  第4節 多賀高忠『佐々貴御代々犬追物』

  ところで、安田氏の言う一枚図形式の犬追物図とは、国会図書館本の事を指し、国会図書館本について安田啓子氏が『犬追物図に関する一考察』の注30において

『内閣文庫蔵写本、多賀高忠著『佐々貴御代々犬追物』二巻は、八幡神勧請為の八幡座の重視や馬場の広さ等で他の故実書と比べて独自の特徴を有すると思われるが、図中の書き入れはこの書の内容の抜粋と殆ど一致する』

 とされており、その底本が多賀高忠著『佐々貴御代々犬追物』であったと解される。しかし安田氏がその論文の注15において

『しかし、同書では、射手の数を「大犬」の場合は三十騎、(十騎三手組)、「小犬」の場合は十二騎または八騎、六騎、二十一騎などで行うとしており、光茂筆本に描かれている十三騎一手組と合わない。』

 と述べられおり、内部の射手の数は多賀高忠著『佐々貴御代々犬追物』に従ってはいないのである。
 ところで、実はこの国会図書館本と『佐々木氏郷』から京極家へ譲渡された犬追物図は瓜二つなのである。さっそく見比べてみよう。

(国立国会図書館所蔵 犬追物図)

(京極家旧蔵犬追物図)




 このように両図はそっくり瓜二つであるので、国会図書館本への指摘は当然にそのまま京極家本への指摘と受け取れるのである。
 よって、京極家本の埒などについての書き入れも、多賀高忠『佐々貴御代々犬追物』に依るものであると理解するべきである。


  第5節 『佐々貴御代々犬追物』と『佐々貴文庫』

 そこで、多賀高忠『佐々貴御代々犬追物』を誰が所持していたのかを考察するために、先述した『佐々貴文庫』における、『大日本史料』の第8編第18部927頁所収の、『多賀文書』に添え書きされた氏郷の証言周辺の頁をもう一度見てみよう。長文ではあるが、画像と共にご紹介したい。

(クリックでスライドショー表示)

 まず最初に山城芳春院所蔵『多賀高忠書像』及び、同書像について、安永6年(1777年)1月14日に多賀常政が伊勢貞丈に質問した『多賀高忠書像問答』が紹介されている。
 続いて、『以下ハ帝国図書館所蔵叢書本ニ収ムル多賀高忠書像問答ニ依リテ補フ』として、

『中原高忠軍陣聞書』
『就弓馬儀大概聞書』
『軍陣之聞書』
『多賀文書 小笠懸之事』

 としてまとめて記載されており、その最後に『佐々木氏郷』による『佐々貴文庫』についての記述がある。従って、上記4書の写しを、『佐々木氏郷』が『佐々貴文庫』にて所持していたと見るのが自然ではなかろうか。
 また、『多賀文書 小笠懸之事』とあるが、『小笠懸』とは、馬場内を走る馬に乗りながら騎射をした後に行われる、馬場を逆走しながら騎射をする事を指す。犬追物にも関係するものである。
 かように見ていくと、多賀高忠『佐々貴御代々犬追物』も『佐々木氏郷』によって写本が所蔵されていたとしても、何ら不思議ではないのである。
 以上の考察により、慶安3年(1650年)に土佐広通により土佐光茂の犬追物図模本が作成され、それに『佐々木氏郷』所蔵『佐々貴御代々犬追物』によって故実が書き加えられたと推定されるのである。
 では、次節にて『氏郷が広通に犬追物図を描かせ、広通から納品された同図に氏郷が故実を書き入れて、いかにも観音寺城に犬追物図があったように偽作をした』とする可能性を考慮しつつ、広通と氏郷のやり取りがどのようなものであったのかを復元していこう。

 

  第6節 土佐広通と『佐々木氏郷』とのやり取り

 ここでは、土佐広通と『佐々木氏郷』とのやり取りがどのようなものであったのかついて、幾つかの論点を設定しながら考察をしていきたい。

論点その1:広通に対し氏郷が犬追物図を発注したのか?

 まず想定されるのが、『佐々木氏郷』が広通に対し犬追物絵図を発注したことにより、広通が同図の制作を始めたという事である。しかしこれにはすぐに疑問符が付く。


(京極家旧蔵犬追物図 丸亀市立資料館所蔵)


 
 第1には、氏郷の所持していた犬追物絵図が未完成の状態である事である。絵図をご覧いただくと分かる通り、埒が立体化されていないことがまず目につく。光茂原本に埒が描かれておらず、後に氏郷が指示したとしても、広通がそれを元に立体化し『絵画』として完成された物を顧客たる『佐々木氏郷』へ納品した筈である。
 第2には、同図の内に赤い色であったろう部分のみ赤く着色されており、他の部分には着色されていない。赤地の退色がそれほど進んでいない様子から見て、他の色だけが完全に退色してしまったとは考え難い。これは元々白黒画であったものに、赤く着色する部分を先に着色し、残りを着色する前に『佐々木氏郷』の手元へ渡ったものだと考えられる。
 かように考えると、本図は土佐広通から『佐々木氏郷』へ『納品』された完成品ではなく、氏郷が故実により指示を出した時点での『原案』であると考えられる。
 広通が作成したであろう『完成品』が氏郷の手元に渡っていない事を考えると、『佐々木氏郷』が犬追物図の発注者ではないと考えるのが自然だろう。第三者から広通へ犬追物図の発注があったと考えるべきである。
 よってこの時点で『氏郷が広通に犬追物図を描かせ、広通から納品された同図に氏郷が故実を書き入れて、いかにも観音寺城に犬追物図があったように偽作をした』という仮説は破棄するべきだろう。


 論点その2:なぜ本図が未完成の状態なのか?

 次に、なぜ本図が未完成なのかについて考察していこう。これについては本図が完成品ではなく『原案』であったと考えると、合理的に説明が付く。
 すなわち、第三者から依頼を受けた広通が氏郷に対し、故実について助言を要請した。これにより氏郷が故実について指示し、それを描き入れた『原案』が作られた。しかし、当然のことながら広通はこの『原案』を元に完成品を描かねばならず、この『原案』は広通のアトリエへと帰っていく運命にある。そして完成品が出来上がった暁にはゴミ箱行きとなるのであろう。氏郷の手元には何も残らないのである。
 となると、『収集癖』があったであろう『佐々木氏郷』が、広通に対し『原案』をもう1つ制作し氏郷へ譲渡してくれるよう依頼したと考えられる。
 かように想定すれば、本図が未完成なままである事への合理的な説明となる。また、氏郷から京極家へ譲渡された際も、他の犬追物関係の3書には仰々しい名前が付いているにも関わらず、本図にだけは特に名前が付いていない事への合理的説明にもなる。


  論点その3:なぜ本図の射手数が略式なのか?

 前述したように、国立国会図書館本(すなわち京極家本)に対し、故実の書き入れが多賀高忠『佐々貴御代々犬追物』の故実と一致する点を指摘され、かつ射手の数が多賀高忠『佐々貴御代々犬追物』とは異なっている点が指摘されている。
 この点についても、最初に土佐広通が同書とは何の関連もなく『犬追物図』の原案を描きかけ、それに『佐々木氏郷』から同書に基づいて故実の指示があったと考えれば、合理的に説明が付く。
 すなわち、馬場内部の描写は元々多賀高忠『佐々貴御代々犬追物』とは何の関連も無く描かれたものであったから、当然の様に同書とは関連のない描写が行われている、と理解できるのである。


 論点その4:なぜ犬追物図と他3書で舞台の年代が異なるのか?

 前述したように、『佐々木氏郷』から京極家へ譲渡された品々の内、『犬追物図』奥書が天文19年(1550年)の事であるとし、他の3書は永禄2年(1559年)の事であるとしている。
 そしてこれについても、『犬追物図』がたまたま氏郷が広通から『おねだり』をして譲り受けた物だと仮定すると合理的に説明が付く。
 すなわち、他の3書は一体を成していたものであるが、そこへたまたま『犬追物図』がくっついて京極家へ譲渡されたものであり、元々関連など何もなかったのである。
 以上の様に考察すると、そこから推定される広通と『佐々木氏郷』とのやり取りは以下の通りになる。
 
 慶安3年(1650年)頃に広通が第三者の依頼等により犬追物絵図の作成を開始したが、基になった土佐光茂の絵には埒の部分が描かれていなかった。そこで広通が『原案図』を『佐々木氏郷』に貸し出して埒の部分の故実について照会し、氏郷が多賀高忠『佐々貴御代々犬追物』によって故実を助言した。
 しかし助言によって新たに書き込まれた『原案図』は広通の許へと帰っていく運命にあった。そこで氏郷が『原案図』をもう1つ作って譲渡してほしいと広通に『おねだり』をした。
 こうして広通にもう1通描いてもらった氏郷はこれを譲り受けた。そして『佐々貴文庫』のコレクションの1つとなった。

 直接証拠が無いのが残念であるが、残された各種遺物とその状況を考えると、今のところ、これが一番自然な解釈ではなかろうか? 後の研究のために、ここに記す。