第13章 『佐々木氏郷』の後継者たち

 
  第1節 京極家による招致の立ち消えと堂上公家『久世氏』

 さて前述した通り、『京極氏家臣某覚書抜萃』では丸亀藩京極家中において、『佐々木氏郷』の後継者は京極高豊のお子様であるので、2千石か3千石で『佐々木氏郷』を招致しようという話が持ち上がっていた。この話はその後どうなったのであろうか?
 実は当時の史料を見る限り、直後に立ち消えになったようである。元禄2年(1689年)に佐々木氏郷が直筆で書写し、その後継者たちが書き継いだ『沙々貴大系図』を、今一度見てみよう。

(京都歴彩館所蔵 『沙々貴大系図』)

 

 ご覧になっていただくとお分かり頂けるように、左ページには京極家によって『佐々木氏郷』の生存時には扶助があったが、氏郷没後に遂に零落、元禄の末に『久世家』に仕えたとしている。次節では、この記述が正しかったか否かの『史実性』について考察していきたい。

 

 第2節 『和田氏の浪人』と『京極家の家宝』

 実は元禄年間頃の記録でも、『佐々木氏郷』の家臣が『浪人』のままだった事が確認できる。前述の『宮川忍斎』が天和年間(1681年)頃から、最晩年にわたって著述した『関原軍記大成』の記事を今一度振り返ってみよう。

『義郷の遺子なりとて、六角中務といひし浪人、天和の頃、洛中に居たりしが(中略)和田氏の浪人物語なり。』

 この記事によって『関原軍記大成』が成立する直前、すなわち元禄年間頃になっても、未だもって氏郷の家来である『和田氏』が浪人であった事が分かる。
 かつて氏郷は『京極氏家臣某覚書抜萃』において、京極高豊からの仕送りに対し礼を述べると共に、『家来』たちの士官をさせてやってほしい旨を述べている。2千石の大身となっていれば『家来』達を仕官させてやれたはずである。ましてや元禄頃であれば、氏郷はもう70歳前後であり、いつ死去してもおかしくない年齢である。
 にも拘らず氏郷の為に長旅をするなど尽力をしている『和田氏』が浪人のままだったという事は、京極家からの2千石進呈の話が立ち消えになった事を指しているのだろう。
 次節では、その原因及びその後の京極家と『佐々木氏郷』との関係について考察していきたい。


  第3節 京極家と『佐々木氏郷』の親交

 2千石進呈の立ち消えについて、真っ先に仮説として挙げられるのが、『佐々木氏郷』が京極家に対し偽系図を提出、2千石獲得まであと一歩のところまで来たが見破られた、とする仮説だろう。
 『大系図評判遮中抄』の言葉を借りるならば、『彼偽譜ヲ献』じて京極高豊を騙そうとし、あと一歩まで来たが、高豊が『京極家家臣某』に系図を『御尋有ケルニ、悉偽作姦操タル由被申シニ依テ其奸曲忽ニ顕』れた。『此由ヲ聞テ大ニ驚キ狼狽シテ夜中ニ江州ヘ逃』げ帰った、という筋書きである。
 しかしこの仮説は成り立たない。それは、

①京極家が氏郷の没後も、氏郷の『家宝』を大事に継承し、京極家の家宝としていた事
『京極家家臣某覚書抜萃』が仮に『偽系図事件』の『覚書』ならば、肝心の『偽系図の露見』の事が書かれていないのは不自然である事

 から否定できる。すなわち、2千石進呈が立ち消えになったのは、京極家と『佐々木氏郷』との親交を破壊しない理由によるものであると推定できる。しかし、現時点ではこれ以上の史料が存在しないので、これ以上言及しない。
 さて、何らかの理由で2千石進呈は立ち消えになり、『佐々木氏郷』の後継者は収入に困る状態になったであろう。『沙々貴大系図』では京極家からの援助が終了し、元禄の末に『久世家』に仕えたとしている。次節では、この久世家仕官が史実であったかについて見ていきたい。

 

  第4節 鍋島藩主による日峯社造営

 時は流れて、鍋島藩第8代藩主である鍋島治茂は明和8年(1771年)に、現在の佐賀市に所在する日峯社(松原神社)の造営を始め、翌年の安永元年(1772年)に無事造営が完了した。
 この時の事を、佐賀市の佐賀市史編さん委員会『佐賀市史』第2巻が述べている。同市より画像掲載の許可を頂いたのでご覧頂きたい。

(佐賀市所蔵 『佐賀市史』)

 
 すなわち、日峯社の造営された安永元年(1772年)に先立ち、藩主治茂が公家の久世家家臣である『六角左衛門尉』を通じて、京都の吉田神社に明神号を懇願している。
 その願いは成就して、同年5月10日に鍋島藩京都聞番である『安満八兵衛』が久世家家臣『六角左衛門尉』と同道して日吉神社に参上、神号が入った箱が日吉神社から鍋島藩へ与えられた。
 この事で安永元年(1772年)には、公家の『久世家』家臣に『六角氏』が居たことが分かる。次節では、この『六角氏』が『佐々木氏郷』の後継者であったかどうかについて見てみよう。

 

  第5節 子爵『久世家』の臣『六角氏』と『近江伊達系図』

 更に時は流れて、明治36年(1902年)5月、実業家の富田鉄之助氏の紹介を通じ、作並清亮氏が京都に住んでいた子爵の『久世家』の臣『六角敦義』氏から『近江伊達氏系図』を入手した。
 その時の様子が、作並清亮氏自身による『東藩史稿』第1巻に記録されているので、ご覧頂きたい。なお、国立国会図書館デジタルライブラリーより、著作権保護期間満了により掲載している。

(国立国会図書館 『東藩史稿』)

 以上の様に、延宝7年に『佐々木氏郷』と同一人物と考えられる『六角中務』の家人『木村佐大夫』が、仙台藩主伊達綱村の家臣落合時成に語った事と全く同一の事を伝えている。またその奥書で佐々木六角氏の事を『佐々貴家』と呼んでいる。これは『佐々木氏郷』の自称『佐々貴管領氏郷朝臣』の『佐々貴』と同じである。よって六角敦義氏こそが『佐々木氏郷』の正統後継者であると考えられる。

 以上により、『佐々木六角系譜研究室』としては、天和3年(1683年)頃に丸亀藩内で『佐々木氏郷』に2千石を進呈し丸亀に招致しようとしたが、何らかの理由で立ち消えになった。
 しかし京極家と『佐々木氏郷』との親交は続き、氏郷が没するまで京極家は支援した。後に氏郷が没した事により京極家からの援助が終了し、氏郷の後継者は零落。その際に何らかの縁により堂上公家の『久世家』に仕え、明治36年5月まで系統を保ったものであると考えたい。なお同年には近代戸籍法が整備されているので、それ以降の系譜については、近代戸籍法の記録するところに譲りたい。