第10章 自著系図忘却伝説の検証

  第1節 通説による『自著系図忘却伝説』の説明

 さて、通説たる『大系図評判遮中抄』は沢田源内(佐々木氏郷)について、自身で書いた系図の内容さえ、すぐに忘却してしまう人物であったとしている。該当部分を今一度現代語訳と共に見てみよう。

(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵 『大系図評判遮中抄』)


 通説の主張は以上の通りであるが、以下にその要点をまとめてみよう。
①系図を作成するときに、記憶のままに作成をした。
②系図を作成した時に、写本を作成しなかった。
③時が経てば、自著した系図の内容を忘却した。
④自著系図を忘却したまま、記憶のままに新たに系図を書いた。
⑤それ故、2回目に書いた系図は、1回目と内容がまるで異なった。

 

  第2節 氏郷による『馬淵系図』の作成と『当家累代記録』

  さて、通説の説明についてその真偽を見ていく訳であるが、最初に系図の作成段階について記した史料を見てみよう。それが岡山県東北條郡三輪庄成安村に伝わる「馬淵系図」である。

 これは、津山藩の軍学師であった正木輝雄が、文化9年(1812年)より個人事業として美作東部を回って伝承・史料の収集を行った際に発見された物である。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
「新訂作陽誌」
請求記号 249-101

 

 上記文中に「当家累代記録書興之」とある。これにより、氏郷が「当家累代記録」と呼ばれる書物から系図を書き起こしていた事が分かる。また後述するが、氏郷は「沙々貴神伝巻」と呼ばれる金泥で書かれた系図を丸亀藩主京極高豊に譲渡しており、丸亀市立資料館にて現存している。またこれも後述するが、氏郷は元禄2年(1689年)に「沙々貴大系図」という物を書写している。同書では、宇多天皇から始まる佐々木六角家累代の事績が記録されている。これらが「当家累代記録」であろう。
 従って、通説の①系図を作成するときに記憶のままに作成した、とする主張は誤りである事が分かる。

 



  第3節 『夢窓国師俗譜』と『佐々木氏郷』の記憶力

 ところで、天龍寺には『夢窓国師俗譜』という史料が伝わっている。この史料は本体である系図部分と、相国寺第100代和尚である汝舟妙恕和尚によって書かれた奥書部分とによって構成されている。
 同奥書によれば、寛文3年(1663年)9月晦日に、『佐々貴管領氏郷朝臣』つまり『佐々木氏郷』が相国寺にやってきて、第99代和尚である愚渓等厚和尚と対談した。その際に、初代和尚である『夢窓国師』の生年の誤りを正したとする。
 東京大学史料編纂所に謄写本があるので見てみよう。

東京大学史料編纂所所蔵
「夢窓国師俗譜」
【請求記号】 2075-293

(東京大学史料編纂所所蔵 「夢窓国師俗譜」)

 
 以上の通り、相国寺開山である夢窓国師の出自について、同寺に伝わる後小松天皇の宸翰に誤りがあった事が発覚し、系図を修正する必要に迫られた事がわかる。同書系図部分はその際に書かれたのであろう。
 更に現存はしていないが、昭和52年(1977年)に柳田清山氏が著された『日本の禅語録七 夢窓』52頁によると、対談が行われた相国寺には『夢窓国師俗姓家譜』という史料があり、やはりこの対談を記録していたとされている。
 この史料にはもう1点類作が存在する。それが後述する元禄2年に氏郷が直筆で書写し、後継者が書き継いだ『沙々貴大系図』である。同書の巻末付近にこの対談が記録されている。

(京都歴史学・歴彩館所蔵 佐々木氏郷直筆『沙々貴大系図』

 
 いかがだろうか? 対談を行った相国寺と『佐々木氏郷』、そして第三者の天龍寺が同じ記録を有している。現存しているのが氏郷筆の分しかないが、所有者が3者に分かれて所蔵されていた点を見ると、ほぼ間違いなく史実であったと考えられる。
 ところで、奥書によれば和尚の主張に対し、氏郷が即答して反論している。また、保元・平治の乱を1156年~1160年頃であると正しく述べており、夢窓国師は建治2年11月朔日生まれ、観応2年9月晦日に没であると、年月日まで述べている。なお、通説によると夢窓国師は建治元年(1275年)生まれであり、没年は氏郷の主張通りである。また、六角氏頼が夢窓国師と同年代である事を主張しているところから、六角氏頼の生没年もほぼ正確に記憶していた事がわかる。
 以上の事から、『佐々木氏郷』が夢窓国師の生年を1年誤っている以外は全て正しく即答していることが分かる。これは驚異的な記憶力がなければできない所業である。
 よって通説の、③時が経てば自著した系図の内容を忘却した、とする主張はほぼあり得ないと判断したい。

 

  第4節 『沙々貴大系図』と『佐々貴家伝』

 『佐々木氏郷』と相国寺和尚との対談のかなり後、元禄2年(1689年)に氏郷が滋賀県に所在する沙沙貴神社の『沙々貴大系図』を直筆で書写している。これにより、沙沙貴神社が『沙々貴大系図』の原本を、氏郷が写本を持つ事になったのである。この氏郷による写本は現在、京都市の歴彩館に所蔵されている。
 ところが、散逸に備えてであろうか、氏郷はもう一冊『写本』を作成していたのである。これを示す資料が、京都大学付属図書館所蔵の佐々木氏郷直筆『佐々貴家伝』である。
 『沙々貴大系図』については、同館より画像掲載許可を頂き、『佐々貴家伝』については、京都大学貴重資料デジタルアーカイブより掲載させて頂いたのでご覧頂きたい。

 いかがだろうか? 氏郷が署名をする際に『郷』の文字を書き忘れている。しかし本体部分の記述はもちろん、氏郷による注記事項についても忠実に書き写されている事が分かる。また、作成年月も『沙々貴大系図』写本と同年月であり、『沙々貴大系図』の写本が2つ同時に作られていた事が分かる。これによって『佐々木氏郷』が、自身がどの様な系図を作成していたか記録していた事が分かるのである。

 よって通説の、②系図を作成した時に、写本を作成しなかったとする説明も誤りである事が分かる。また、写本が存在する以上記憶に頼って書く必要もない。
 よって通説の、④自著系図を忘却したまま、記憶のままに新たに系図を書いたとする説明も誤りである事が分かる。


 以上により、氏郷は系図を作成する際に底本を使用し、驚異的な記憶力でその内容を記憶でき、かつその写本を作成しており、その上で写本を見ながら新たに系図を書いていたことが分かる。よって通説の、⑤2回目に書いた系図は1回目と内容がまるで異なった、とする説明も誤りである事が分かる。
 以上の通り、通説の説明は①②③④⑤の全てが誤りであり、『佐々木六角系譜研究室』としては、通説の『自著系図忘却伝説』は虚説であったと断定したい。