第6章 京極内蔵助の素性


  第1節 「混見嫡写」に見る「ササキ本」成立経緯


京極内蔵助と「先代旧事本紀大成経」の「ササキ本」との関係について、加賀藩士の吉田守尚が著した「混見摘写」に、原典は不明ながら守尚が書き写した書物の内容が記されている。その内容を、日置謙氏が紹介されているので見てみよう。

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
日置 謙『重訂 越登賀三州志』 773頁
請求記号 640-178

 

 

  第2節 京極内蔵助の身分と木曽福島関所

 上記の通り「混見嫡写」では、京極内蔵助の事を「京極内蔵介とて、館林様の御台様に附来る者」としている。この点については実際に一次史料によって確認を取る事が出来た。
 寛文4年(1664年)8月に、鷹司家の姫君が館林家に輿入れするために下向の旅をしていた所、手形記載の人数と供奉の人数が相違するという事件があった。この時の記録が木曽福島関所の記録に残っていたのである。五十嵐富雄氏が「御関所事雑留」という史料を翻刻文と共に解説をされているので見てみよう。

多賀出版
五十嵐富雄 
『近世関所の基礎的研究 中山道碓氷関所を中心として—』



 

 次に、下記史料を見てみよう。

長野県発行
『長野県史』
近世資料編
第5巻 中信地方
291頁

 本件の旅は、同書に所収されてる「筑摩郡本山宿本陣大名宿泊留」にも記録されている。そこでも「京極内蔵助殿」と記載されており、その史実性に疑問の余地は無い。また、同人は鷹司家の姫君輿入れの旅で、「宰領」つまり責任者を任されている事から、鷹司家の上級家臣であることが分かる。
 先述の通り、永補任の記述がある「ササキ本」の奥書では、氏郷が主張したのと同じ主張がされている。そして京極内蔵助が同書を出版している事から見て、京極内蔵助が氏郷の協力者であった可能性が高いと言えよう。


第3節 宮津藩京極家と佐々木氏郷

 ところで、京極内蔵助が氏郷の協力者であったと仮定した場合、1つの疑問が湧いてくる。永補任は佐々木六角家嫡流だけが受けられるのであり、内蔵助にメリットは無い。しかも「江源武鑑」には永補任の話は出てこないのである。
 にも拘らず、どうやって内蔵助が永補任の話を仕入れてきて、なぜ氏郷に協力する様な言動をするのか、従来の「大系図評判遮中抄」を基にした『沢田源内伝説』では説明がつかなかった。
 しかし、実は氏郷生存時に宮津藩京極家と氏郷の関係について供述した人物が居たのである。それが京都歴史学・歴彩館所蔵の「江陽六角屋形年譜」である。

京都歴史学・歴彩館所蔵
「江陽六角屋形年譜」
請求記号 貴 199


 現在の所、宮津藩第2代藩主京極高廣の養子だという、京極義廣・義範親子については調査ができていない。しかし、実際に第3代藩主京極高国の子息である、京極内蔵助が氏郷に協力するような言動をとっている以上、蓋然性は高いのではなかろうか。